遺恨

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─19─  日記を読み終えると、鼻をすする音が聞こえてきた。赤井先生が鼻を赤くし、目頭を押さえている。 「すみません。神野がそんな風に思ってくれていたなんて、嬉しくて」 「神野さんに、赤井先生がいてくれて本当に良かった。ひとりきりじゃなかったんだから」 「でも……」  あきらが、話に割り込むことを躊躇うように、遠慮がちに入ってきた。 「うん?」 「──でも、先生と陽太がいてくれて、力になってるって思っていたのに、どうして卒業まであと一か月というところで自殺したんですかね……」  あきらの確信をつく一言に、言葉が詰まる。 「確かに……。あんなひどいことをされても、学校を休まずなんとかやってこれていたのに……。あと一か月で解放される頃になってなぜ……」 「先生、神野って進路どうなっていたんですか?」  あきらが、俺の話に被せるように赤井先生に問いかけた。 「神野は、札幌の高校に受験する予定だったんだ。受験すれば、確実に受かっていたと思う。本当に優秀だったからな」 「それなら、尚更……」  あきらが、がくりと肩を落とした。 「その高校に、他の生徒は行く予定なかったんですか?」 「うん。優秀な高校で、神野以外は受験の予定はなかったよ」 「将来をしっかり見据え、ほぼ進路も決まっていたのにも関わらず、それさえ、投げ捨て自殺を選んでしまうほどの絶望が、彼女を襲ったということですね」 「俺なら、今までのいじめでも十分、絶望だけどな……」  あきらの言葉が、真っ当すぎで、何も返す言葉が見当たらない。  確かにそうなのだ。今の状況でも十分自殺はあり得る。しかし、日記からはその気配すら感じられない。それがなぜ、この地獄のような日々が終わる直前になり、突然、自殺を選んだのだろうか。どんなに辛くとも、自分を見失わず耐えてきたというのに。きっと、その答えがわかった時、全ての疑問が解け、俺たちは解放されるのではないだろうか。 「赤井先生でも、自殺の直接的な原因はわからないんですよね?」 「ええ。遺書がなかったですから……。でも、誰もがいじめが原因だと思っているはずです」  そうだろう。誰に聞いても同じことを言うはずだ。他に何があるというんだ……。 「そろそろ、違う教室に向かいませんか?」  赤井先生の提案に、二人は同意した。 「じゃ、技術室に行きますか?」  こうして技術室に向かうことにした。  技術室は、廊下の端だった。そこに行くにはトイレを通り、さらに三年生の教室を通らなければならない。  俺が先頭になり、理科室を出て一列で技術室へ向かう。  角を曲がり、トイレに差し掛かった時だった。突然、三年生の教室が開いたのだ。 「なんてことだ! チャイムは鳴ってないじゃないか!」 「どういうことなんだ!」 「隠れないと!」  完全に油断していた三人は、狼狽え、その場で立ち止まる。しかし、考えるより先に、体が勝手に動いていた。今までの経験から、逃げることが体に染みついていたのだ。 「こっちだ!」  俺とあきらはトイレに逃げ込んだ。赤井先生は、トイレには入ってきていないようだ。  個室にそれぞれ隠れ、息をひそめる。今できることは、化け物が入って来ないことを願うだけだ。  化け物が徘徊をはじめ、足音に耳をそばだてる……。   ──どうやら、願いは届かなかったようだ。静かな足音が、トイレの中へ入ってきた。聞く限り、化け物は一体のようだ。  あきらの入っている個室の前で、止まる。その瞬間、ドアが開き、叫び声とともにあきらが飛び出し走っていく音がした。  あきらは、うまく逃げたのか? 化け物はまだトイレにいるのか?  再び、耳を澄ませる……。 ──いる。  俺の個室の前にいる。全身が硬直し、心臓の鼓動が全身から鳴り響く……。  お願いだ、開けないでくれ……。頼む……。    化け物は個室のドアを開けることなく、静かな足音で歩きだした……。 ──助かった。今度は願いが通じたようだ。  安堵し、個室から出ようとしたときだった。あきらかな視線を感じ、全身の毛穴という毛穴から、汗が噴き出す。  頭上に全ての神経を集中させ、ゆっくりと見上げる……。 「あ、ああああああ」  俺の視界は、異常なまでの大きな顔に埋め尽くされた。しかし、それを顔と呼ぶにはあまりにもパーツが足りていない。目も鼻も口も何もなく、道路が陥没したかのように、大きな穴が開いている。その穴は何もかも吸いこみそうな程の漆黒。  今にも発狂しそうな恐怖に、頭が真っ白になり、金縛りのように動かない俺の頭めがけて手が伸びてきた。 「お兄さん! こっち!」  先に逃げていたあきらが俺を呼ぶ。その声に、間一髪でやっと体が動くようになり、勢いよくトイレのドアを開け、逃げ出す。しかし、隣にいた化け物が、すごい力で俺の腕を掴み、そのまま持ち上げた。 「や、やめろ!」  すると化け物は、俺をそのまま床へと叩きつけた。  全身に強い衝撃と痛みが走り、気を失いそうだった。  痛い……。俺はこのままやられるのか。  ゆっくりと、大きく陥没したその顔が、俺に迫ってくる……。 ──チャイムだ。  なんとか、助かったのだ。チャイムは、俺たちを恐怖のどん底へ落としもするが、味方にもなる。 「お兄さん!」 「風太さん!」  あきらと、赤井先生が駆けつけてきた。 「ちょっと、痛いです……」 「動けますか?」 「何とか…」  二人の肩に寄り掛かるように起き上がり、トイレから出る。 「このまま技術室まで行けますか?」 「はい」  支えられながら、技術室へ向かう。歩くたびに、全身に響くような痛みが走り、その度に止まってしまう 「ゆっくりでいいですよ」  赤井先生が、優しく声を掛けてくれる。    チャイムがいつ鳴るのかわからなくなった今、どこで、どのタイミングで鳴るのか、全く見当がつかない。時間がわからなくとも、チャイムが規則的に鳴ることによって保たれていた、時間の感覚さえ失われた。  人間は、常日頃、時間に縛られ支配され暮らしてる。どれだけその支配から逃れたいと思ったことか。しかし、その時間の支配から解放された途端、まるで、夜の大海原に放り出されたかのように、底しれぬ不安に襲われていた。    
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