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─29─
神野がどんな気持ちでこの幻覚を俺に見せたのか……。
ふと、視線を落とすと、目の前に倒れているマットに、鮮血が飛び散っていた……。
幻覚が終わるまで耐えていたものが、一気に爆発し、殴りかかろうとした時、隣にいた凜華が俺の前を通り、赤井俊介の前で止まった。
次の瞬間、静まり返っていた部屋に、乾いた音が響いた。
凜華は赤井俊介の頬を、平手で打ち、大粒の涙を流している。
「桃花のこと……全部、嘘だったのね」
凜華は怒りで、声が震えていた。
そんな凜華を見つめながら、自分の頬を擦り、笑みをこぼした。
「ああ。桃花を手に入れるために、お前を利用したんだ。悪いか? お前だって本望だったろ? 俺に抱かれたんだから」
あまりの下衆な発言に、凜華は茫然と立ち尽くす。
「どうして凜華さんだったんだ? どうして凜華さんを利用したんだよ!」
たまらず口を挟む。
「どうしてって? 桃花を初めて見た時から決めていたんだ、俺のものにするってな。この年頃の女は、大人の男に憧れを持ち、少し優しくすれば、ものにすることは容易い。しかし、桃花は違った。お前の弟が邪魔をしていたんだよ。だから親友の凜華を利用し、ひとまず信頼を得るところから始めたんだ。凜華が俺に惚れていたことは、キャンプで知っていた。だから、親友である桃花が裏切ったとなれば、凜華は怒りと、嫉妬から桃花をいじめると考えた。独りぼっちになったところで、俺が唯一の味方だと示せれば、信頼を勝ち取り、俺のものにできると思ったんだ。でも、桃花と陽太の絆はもっと強くなるばかりで、桃花は俺に見向きもしなかったんだ」
「当たり前だろ! お前は教師なんだから! しかし、担任としてのお前を深く信頼していたんだぞ。それを裏切るなんて……」
「だからだよ。信頼は得ていたのに、陽太の存在が俺と桃花の邪魔をしていたんだ。あいつさえいなければ……。だから、陽太もいじめに遭うよう仕向けていった、桃花をあきらめさせようとな。そう考えれば、凜華はいい働きをしてくれたよ……。凜華の体も、まあ、悪くはなかった。感度もよかったしな」
凜華は怒りで顔を赤くし、赤井俊介の胸ぐらに掴みかかった。
「桃花は何もしていなかったのに……何もしていなかったのに……あんたのせいで!」
「うるさいな……」
地鳴りのように低い声で、呟いた。そして、凜華を突き飛ばした。
「うるさいんだよ! お前だって俺に抱かれ喜んでいただろ! いつもねだるような顔しやがって──あの女と同じなんだよ!」
赤井俊介は、いったい……どこで道を踏み外したんだ。
「どうして、中学生なんかに手を出すんだよ。お前くらいだったら、どんな綺麗な女性だって、付き合えるだろう」
顔立ちもいい、背も高い、公務員……。女性が放っておかないだろ。
「──淫乱女ばっかりだ。近寄ってくる女はみな、ねだるような顔をしやがって。反吐が出るんだよ……あの女と一緒だ……」
あの女? さっきもそう言っていたが……。
「あの女って誰なんだよ」
少しの沈黙のあと、赤井俊介は座り込み、鮮血のついたマットを見つめながら話し始めた。
「俺の母親は、十七で俺を産んだんだ。下せなかったから仕方なく産んだと後から告げられたが、本当にその通りで、俺の世話などほとんどしなかった。日中働いたあと、夜になるといつも違う男を連れ込んでいた。狭い家だったから、母親の甘えた声、ねだるような声、快感に喘ぐ声、全てが筒抜けだった。どれだけ耳を塞ごうとも、聞こえてくる……。俺はでかくなるにつれ、家に寄り付かなくなっていった。幸い、容姿がよかったから、あらゆる女が助けてくれたよ。俺が教師になれたのも、当時俺を買っていた、金持ちの女が全て出してくれたんだ」
この歪んだ性格形成は、幼少期時代の劣悪な環境が、そうさせたのか。
「そんな母親や、金で男で買うような女を見てきた俺は、女にとことん幻滅していたんだ。しかし、桃花を見たとき、やっと見つけたと思ったよ、理想的な女性に。見ただけで純粋だとわかった。あの、穢れの無い瞳……。だから、絶対誰にも渡したくない、手を付けられる前に俺が……と思い、凜華を利用したんだ。どんな手段を使ってでも桃花をものにすると決めたんだ」
この、極端な考え方、執着……。
どれだけ、幼少期から辛い思いをしてきたといっても、それは理由にはならない。どんな境遇でも真っ当に生きている人はたくさんいる。
「それで、無理やりものにしてどうだったんだよ」
当時を思い出したのか、薄気味悪い笑みを浮かべた。
「最高だったよ……。あの時間は、想像を遥かに超えるものだった。これから桃花を思い通りに調教していこうと思っていたのに、あんなことをするなんて……ほんと、残念だ。だから、さっきの幻覚は動画でも撮っておけばよかったな」
次々に赤井俊介の口から出てくる下衆な言葉に、凜華は茫然と立ち尽くしかないという様子だった。そして、凜華もまた、赤井俊介に裏切られた女性の一人だ。親友だった神野桃花をいじめるに至るほど、翻弄され、自分を見失っていたのだろう。それだけ、赤井俊介という男は、あの頃の凜華にとって全てだったのだ。
「お前が神野桃花を殺したとは思わないのか?」
「俺が? 思うはずないじゃないか。それに、原因が俺だなんて、証拠がないだろう。遺書でもあれば別だが、なかったんだ。今見た幻覚だって、所詮幻覚だ。証拠にはならんだろ」
赤井俊介は嘲笑し、座り込んでいたマットから立ち上がり、部屋から出て行こうとした時だった。
空気の流れが明らかに変わったのがわかった。それは、俺だけではなく二人とも気づいているようで、不安げに辺りを見渡す。
「雪……」
凜華が小さな声で、呟く。
すると、吐く息が白い事に気づき、小窓から外の様子を伺う。
「朝日か……?」
いつの間にか景色が変わっていた。薄暗い空に、濃いオレンジ色の光が差し込み、俺たちに朝を知らせているようだった。その光に反射した、小さな氷雪が、ダイヤモンドの粒のように輝いている。
しかし、現実の季節は……夏。
これはいったいどういうことなのか……戸惑っていると、突然、鍵が掛かっていたはずのドアが開いた。
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