遺恨

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─32─ 「お兄ちゃん、あれ……」  陽太が指さす方へ視線を移すと、桜の木の下に、何かが落ちている。 ──桃色の封筒。 「遺書だ!」俺がそう叫ぶと、陽太は戸惑いの表情を浮かべた。 「校舎にいるとき、幻覚を見たんだ。神野が亡くなる前、足元に遺書を置く所を。それが、この桃色の封筒だったんだ。結局、赤井俊介によってこの木の下に埋められたんだが……」 「えっ、ちょっと待って。だって、第一発見者は、別の人だよ……」 「知ってる。でも、本当は赤井俊介だったんだよ。神野が呼び出していたんだ、先生を。今となってはわからないが、先生が原因で死んだと、つきつけたかったのかもしれないし、それによって、先生が変わることを願っていたのかもしれない……」  陽太は、俺の話を聞き、頭の中で何かが繋がったような表情をした。 「神野が言っていたことはこれのことか……」 「遅くなったが、神野の遺書……読んでみようか」  封筒に手を伸ばしたとき、隣に見覚えのある物が落ちていた。 「これ、なんだっけ……」小さな声で呟くと、突然、陽太が泣き崩れた。 「どうした?」  意味がわからず、慌てふためく。 「これ……イルカのキーホルダー」  イルカのキーホルダーって……神野が自殺する直前に、愛しいものを抱きしめるように、優しく胸にあてていた、キーホルダーだ。 「これ、神野が亡くなる前に……」  そう言いかけた時、陽太が被せるように話し出した。 「神野が昔、いじめられる前、水族館に行ったお土産にくれたんだ。お揃いだと言って照れくさそうに……」  陽太はおもむろにポケットに手を入れた。 「あ、あれ? 家を出る時に、確かポケットに入れたはずなんだけど……」  ──思い出した! あの時、陽太の部屋で拾ったキーホルダーだ。色褪せても使い続けていた……キーホルダー。 「陽太……」  ポケットに入れてあったキーホルダーを、陽太の前へ差し出した。 「──これ! なんで兄ちゃんが?」 「陽太の部屋で拾ったんだ。昔から持っていると思ったら、そういうことだったのか」 「よかった……大切なものだから……」  陽太は、白い綺麗なイルカのキーホルダーと、色褪せたイルカのキーホルダーを両手の手のひらに乗せた。  時を刻むことが出来なかったキーホルダー、時を刻み続け、味わいが出たキーホルダー。  二つを大切に握りしめた。 「神野がずっと見つけてほしかった、遺書を読もうか」 「うん、そうだね」  桜の木の下に座り、封筒から便箋を取り出した。  「大切な人へ」  お父さん、お母さん、親不孝な娘でごめんなさい。いじめに耐え、ずっと頑張ってきたけど、もう、疲れました。これ以上は頑張れません。卒業を目標に頑張ってきたけど、一日も生きていることができません。  信用していた赤井先生にあんなことをされ、私の体は穢れ、大切に育ててくれた、お父さん、お母さんに申し訳ない気持ちでいっぱいです。  いじめに二年間も耐え、最後にこの仕打ちはひどすぎました。  陽太君、最後まで私の味方でいてくれてありがとう。途中から陽太君自身もいじめの対象になったとき、すぐに私から離れたほうがいいと言ったよね。そのとき、俺は平気だから、一緒にいるからと言ってくれたとき、絶対に負けない、卒業するまで頑張ると思えたの。だから耐えてこられた。本当にごめんね、陽太君。  でも、陽太君と過ごした時間は心穏やかで、幸せだった。ありがとう。感謝してもしきれない。裏切る結果になってしまったけど、陽太君、私の分まで幸せに生きてほしい。  私の大切な人達が、幸せに暮らせますように。  ありがとう、さようなら  神野桃花 「神野……神野……」  陽太の涙はとめどなく溢れ、乾いた地面を濡らす。そして、その涙は、桜の木の下に、染み込んでいく……。 「陽太も、辛かったな」  陽太の背中をさすり続けた、幼き日のように……。  遺書を読み終え、改めて神野の強さと優しさを知った。最期まで誰かを想い、感謝を忘れることはなかった。神野を知れば知るほど、この二年間が悔やまれる。  赤井俊介が赴任して来なければ、凜華は、先生を好きにならなかった。  赤井俊介が赴任して来なければ、親友二人の仲に亀裂が生まれることはなかった。  赤井俊介が赴任して来なければ、みんなの幸せが壊れることはなかった。 ──赤井俊介が赴任してこなければ、神野は今も、幸せに生きていた……。  全ての元凶……赤井俊介が、赴任してきたあの日から、始まっていたのだ。 「落ち着いたか?」 「──うん」  疲れ切った顔で、陽太は微笑んだ。  白い霧がゆっくりと消えていき、青い空が見えてきた。  雲の切れ間から、太陽の日差しが二人を照らす。それはまるで、神野桃花が優しく微笑みながら、二人を見守ってくれているかのように、温かかった。  廃校舎に目をやると、元の姿に戻っていた。実際は、四年ほどしか経っていないので、あまり劣化は進んではいなかった。  たくさんの生徒たちを送り出してきた校舎。思い出とともに、静かに、時を刻んでいく。 「さあ、帰ろうか」 「うん」  桜の木を背に、二人は歩き出した。 「──ありがとう」  神野桃花の声が聞こえた気がして、後ろを振り返る。 「桜が……」  あの日から、一度も咲くことがなかった大きな桜の木に、満開の桜が咲き誇っていた。辺り一面、桃色に燦然と輝いている。  神野と陽太、二人を、いつも優しく見守り続けていた桜の木も、ようやく時が動き出したのだ。  神野桃花の死は、悲劇だ。  しかし、いつまでも止まったままではいられない……俺たちは生きているのだから。  生きている者は選ぶことができる。前へ進むこと、立ち止まること、時に後ろを振り返ること……。    神野桃花が、見ることができなかった未来を──俺たちは生きていく。
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