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─4─
昇降口に入ると、目の前の蜘蛛の巣に気づかず、糸が顔にまとわりつき、手をバタバタさせ、振り払う。軽くパニックになっている自分に気づき、「ふっ」と、鼻で笑う。
それと同時に、マナーモードにしておいたはずのスマートフォンが、大きな音で鳴りだし、心臓が止まりそうになる。ただ電話が鳴っただけだというのに、こんなにも狼狽えている自分が情けない。
スマートフォンを左手に持ち、非通知なことを確認し、ゆっくりと耳にあてる。
「……もし、もし」
「……み……つ……け……」
まただ、何を見つけてほしいのだ?
「いったい、この俺にどうしろと……」
「……」
そして、通話は切れた。
雑音の向こう側には、確かな闇が存在した。女性はその闇に溺れ、辛うじて表面に顔だけを出し、必死に何かを伝えようとしている……。俺は、そう感触を得た。
失くさぬよう、リュックサックの中にスマートフォンを投げ入れ、代わりに懐中電灯を取り出し、右手で握りしめる。
懐中電灯の明かりに少し正気を取り戻し、辺りに目を向けると、校内は薄暗く、玄関は、靴のゴムの臭いと、カビの臭いが入り混じった独特な臭いがした。
しかし、外観の朽ち果て具合から考えると、校内は当時と大差ないように感じられた。歴史のある校舎だったため、お世辞にも綺麗とは言えないが、見た限り、当時のまま……。
まるで、この場所だけが、時に置き去りにされているようだった。
木製の下駄箱も当時のままだったが、所々、取れかかっている扉もあるようだ。そして、全ての扉は開いている。
端から見ていく。
下駄箱は六列並んでいて、両側の壁際に一つずつと、その間に四列。どの下駄箱にも靴は入っていないように思われたが、一つだけ扉が閉まっている下駄箱を見つけた。それは、右から二番目の列でちょうど真ん中。不穏な気配を感じるが、探究心の方が勝り、恐る恐る扉を開ける。
「ひっ!」
俺は情けない声を上げ、パニックになり、咄嗟に踵を返し、昇降口のドアを押す。
両手でガタガタと、押したり引いたりしたものの、先程まで開いていたはずのドアが固く閉ざしビクともしない。
「どういうことなんだ!」
諦めきれずあがくも、すぐに無駄なことだと悟り、力なくドアから手を離した。
閉じ込められたことで、全身が絶望を感じていた。だが、絶望が俺の思考を占拠したことにより、不思議と落ち着きを取り戻している……いや、これは諦めに近い感情か…。
呼吸を整え、覚悟を決め、下駄箱をもう一度覗く──。
「う……」
やはり、見間違えではなかった……。
今、俺の目の前にある恐怖は、べったりと血が付いた上靴。下駄箱の中は血しぶきで濡れていた。
「うん?」上靴の中に光る何かが見える……。猛烈な吐き気を抑えながら、意を決し、血濡れた上靴を持ち上げる。
「ああああ……」
目に飛び込んできたその衝撃に、目を見開いたまま、凝視する。その上靴の中には、画鋲が隙間なくびっしりと敷き詰められていたのだ。
「──ひどい」
毒々しく、おぞましい光景に目を離せずにいると、一人の名前が頭に浮かんだ。
もしかして、この上靴……。下駄箱の名前を見る……。
「そうか、やっぱり……」
──神野桃花。
これは、神野がいじめにあっていた頃の上靴だ。そもそも、上靴自体、残っているはずもない。これはどういうことだ……。
ふと、昨晩から続く電話のことを思い出した。
『見つけて』
これはもしかすると、神野からの、何らかのメッセージなのかもしれない。
となると、この上靴の意味とは……。
──わからない。神野が何を俺に、訴えているのか……。
ただ一つわかったことがあるとするなら、神野が想像以上のいじめを受けていたことだ。
下駄箱からはこれ以上何も見つからなかった。
気は進まないが、陽太を見つけるため、一階から探索してみることにする。
校内に足を踏み入れたその瞬間、甲高い叫び声が聞こえた。その声は、しんと静まり返る校内に響き渡った。
「誰かいるのか!」
反射的にそう叫んでいた。
今の声はあきらかに女性で、鬼気迫るような心の底から恐怖を感じているような声だった。
──何かに襲われたのか?
あの叫びは驚きから来るものではない。やはりこの建物には何者かが潜んでいるのか……。だとしたら、さっき俺が声を出したのは、失敗だったか……。
女性は大丈夫なのだろうか。心配だが、女性を襲った『なにか』に会いたくはない。
校内は薄暗いが、所々、蛍光灯がチカチカとしていて、全く見えないほどではない。
とりあえず、左横にある職員室から見ていくとしよう。
なるべく音をたてないようにドアを開ける。
中は薄暗く、廊下同様、蛍光灯がチカチカとし、不気味だった。
そもそも、廃校でなぜ電気が通っているんだ……。だめだ。深く考えるのはやめよう。
「あれ……」よく見ると、教員がデスクに座っている。誰ひとりとして、前を向いておらず、下を向いていた。
そして、──気づく。
「黒い……」
そう、教員全員が黒いのだ。黒いというより、影。
あれは……人ではない……。
理由などない、直感的にそう感じたのだ。
そして、一番近くの教師に恐る恐る近づく。
──やはり、これは……影だ。
どうなっているんだ……。
近づいても何も反応はしなかった。いるのかいないのかわからないような存在……。これは何を意味しているんだ……。
懐中電灯を照らしながらか、各机を見てみるも、これといって変わったものは見当たらなかった。教員は、話すわけでも襲ってくるわけでもなく、存在があまりにも薄い。
もうこれ以上ここにいても意味がない。職員室を出ることにしよう。
今言えることは、現実では起こりえない何かがここでは起きているということ。
神野の血の付いた上靴、職員室にいた影のような姿をした教員たち。非通知の電話……。同窓会メンバーの失踪……。
「あ……」
そうだ、同窓会の案内状……。
リュックサックから取り出し、もう一度見てみる。
「幹事、神野桃花」
そうか。これは、趣味の悪いいたずらなんかではなく、本当に神野から来た、同窓会の案内状だったのではないだろうか。
俺は神様も信じないし、心霊の類も全く信じていない。だが、認めるしかないだろう。この今の現状、現実世界の枠を超えているとしか思えない。これは、俺の想像の域を出ないが、この現象を起こしているのは恐らく神野桃花。自分をいじめていたクラスメイトに復讐するため、神野がこの場所に引き寄せたのではないだろうか。だがこれには疑問がひとつある。なぜ俺も巻き込まれたのか。俺は弟を探しに勝手に来たと言えるが、それならあの電話の説明がつかない。メッセージともとれる、あの電話の意味が…。
俺の想像が正しいとするならば、これから何が起こるのか、何が出てくるのかわからない。現実世界では起きないようなことが次々と起こる可能性がある。
職員室を出て左が保健室だ。次はそこに入るとしよう。
歪み、滑りが悪くなっているドアを、力任せに横に引く。
そこには、白衣を着た女性と思われる影が椅子に座っていた。シルエットから女性だとわかり、足を組んでいるようだ。
「さっきと同じだ……」
ふと横を見ると、ベッドを囲んでいるカーテンが微かに揺れている。それを見た時、背筋に冷たいものが走った。
「誰かいる……」
フレアスカートのように揺れる白いカーテンの奥に、人のような影がはっきりと見える。
今すぐにでも部屋を飛び出したい気持ちを抑え込み、震える手でカーテンをゆっくりと開ける。
「え……」
そこにいたのは、制服を着たかわいい少女だった。大きな瞳から大粒の涙が溢れ、次から次へと零れている。よく見ると、足には包帯が巻かれており、しきりに、足の裏を抑えている。怪我をしたようだった……。思わず話しかける。
「どうしたんだい? 大丈夫?」
何も反応がない。反応がないというより、俺が見えていない……。
あれ、この顔、どこかで……。
──卒業アルバムで見た、神野桃花だ。この大きな瞳……間違いない。
神野が目の前で泣いている。自分は見えていないとわかってはいるが、涙を流す姿にたじろぐ。
すると、保健室のドアが開く音がし、咄嗟にしゃがみ、身を隠す。次の瞬間「ザッ」とカーテンが勢いよく開いた。
「桃花! なにやってんのよこんなところで!」
「足が痛くて……」
「さぼってんじゃないわよ!」
神野の言葉など、聞き入れる気は全くない様子で、神野の髪の毛を掴みベッドから引きずり落とした。
「何やってんだよ!」思わず俺は、その女の子の腕を掴んだ……はずだった。しかし、空気を掴むように腕をすり抜け、自分の拳を握っただけだった。リアルだが、実体がない。まるで映画を見ているようだった。
──もしやこれは、俺に訴えるために、当時、何があったのかを、神野が俺に見せているのではないだろうか。
それより、保健室の先生は何をしているんだ? 見て見ぬふりかよ!
恐怖というより、怒りの方が強い。
見て見ぬふり……。
「ああ、そうか。そういうことか……」
落胆した。
教員たちが、影のように存在を感じなかったのは、いつも、神野のいじめに対し、見て見ぬふりをしていたからだったのだ。だから影だったのか。
それにしても、あんなひどいことが日常茶飯事だったとなると、神野が自殺を選択したことも理解できる。悲しいことだが、俺でも心が折れるかもしれない。それに、両親にも話せていなかったとなると尚更。ずっと一人で悩み、一人で決断をした……。
死んでも死にきれない……。
恨みを抱いたまま亡くなったとしても、おかしくはない。
「やめてよ!」
「うるさい! 口ごたえするつもり?」
「痛い痛い!」
髪を掴まれ、そのまま、神野は連れて行かれた。
俺も後を追う。助けられるわけでもないのに……。
保健室のドアを開けると、もう誰もいなかった。やはりあれは幻覚か……。
これからもあのようないじめの光景を、見せられるのかと思うと、たとえ、今、起こっていることではないとわかっていても気分が沈む……。
保健室を出てすぐに、静まり返った校内に、チャイムが鳴り響いた。
予想もしないチャイムに狼狽え、鳥のように警戒することでしか身を守れず、左右に首を振り、辺りを見回す。
チャイムが鳴り終わると、『ガラガラ』と、どこかのドアが開いた音がした。
身を固くし、身構える。
音からして、右奥、生徒たちの教室のドアが開いたようだ。
「あれは……」
教室から、制服を着た、女子生徒が三名出てきた。ゆっくりとこちらに近づいて来る。
一瞬、同窓会のメンバーかとも思ったが、制服を着ている時点で、間違いだと気づく。遠くてはっきりと見えず、近づき様子を伺う。
はっきりと見えてしまった『それ』は、あまりにもショッキングな見た目だった。
その女子生徒たちは、顔面に、虫の羽のようなものがびっしりと刺さっている。そして、時より「ブン」と、羽音を鳴らし、腕を前にたらし、まるでゾンビのように、よろよろと歩いてこちらに近づいて来る。
──いや、違う。よろよろと歩いているのではない。足が左右逆なのだ。だから歩き方ぎこちないのだ。
俺は少しずつ後ずさりをし、体育館の方へ逃げる。ドアを開けようと引くも、びくともしない。
「まずい!」
ここは行き止まりだ。前からあいつらが近づいて来る。どうする……。
そもそも、あいつらは、何者なんだ? 人間を襲うのか? 疑問符が頭の中で次々と生まれ、処理しきれない。
「ずず、ずずず」
そんなことを考えている間に、すぐそばまで近づいてきている──。
チャイムだ……。またチャイムが鳴った。
不思議なことに、制服を着た化け物たちが方向を変え、また教室に戻って行く。それと同時に職員室のドアが開き、教員と思われる影たちも教室に入っていった。
「た、助かった……」
なぜだかわからないが、とりあえず助かったようだ。
「なんだったんだ……」
安心した途端、足がガクガクと震えだし、よろめき、床にしゃがみこんだ。
あんな奴らがこれからも出てくるのか? 幻覚だけではないのか?
これでは、命がいくつあっても足りやしない。
陽太を連れ、無事に帰りたいだけなのに……。
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