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――子供の頃、殺意を抱くほどの怒りや悔しさを覚えると、
『ふっふっふ、手助け、してやろうか?』
そう、語りかけてくれる“彼”がいた。
そんな“彼”の事を思いだしたのは、珍しく取れた3連休初日の朝だった。
存在すら忘れていた彼に、私は無性に会いたくなった。
救いが欲しくなったのだ。
原因はきっと会社だ。もっと言えば会社の人間関係に疲れていたからだ。
だから私は、始発の電車に乗って故郷へ向かった――。
――古臭い音のする呼び鈴を押してから、古びた扉が開かれるのを待つ。
「はーい」
玄関の戸が開かれ、一瞬驚いた様子の母親の顔を見て、私は少しだけほっとした。
「ただいま」
「あら、真冬。どうしたの、急に」
「あ、うん。連休が取れたから」
そう言って“社会人らしく”駅で買った土産を紙袋に入ったまま手渡した。
お盆と正月以外で、実家に帰ってきたのは何年ぶりだろう。
お盆にしても、正月にしても、長く居られた事なんてないんだけど。
まず最初に、仏壇の前に座り手を合わせる。
お爺ちゃん、お婆ちゃん、ただいま。と心の中で告げる。
「あんた、なんかあった?」
座布団から膝を持ち上げ、振り返ったタイミングで、財布と買い物かご持った母さんが小首を傾げた。
「ううん、そんなんじゃないから」
「本当に?」
「ほんとほんと」
嘘だけど。
私は嘘が上手いから、普通に笑える。
すると息を吐くような、ほんの僅かな間を挟み母さんも笑った。
「ならいいけど。じゃあちょっと買い物行ってくるわ。今晩、何食べたい?」
「わざわざ買いに行かなくても、あるものでいいよ」
「馬鹿ねぇ、なんにも無いから買いに行くのよ」
無いのは想定外の私の分だよね。
そういえば、私は一人で暮らすようになって、必然的に母さんもこの家で一人になった。
私は、母さんがどんな食事をしているのか知らない。
「じゃあ、から揚げかな」
「はいよ。出来たら呼んであげるから部屋で休んでてよ」
「うん。そうする。ありがとう母さん」
「はいはい」
相変わらずだ、優しい母さんは笑顔で頷いた。
こんな優しい母さんだから、心配させたくないのだ。
サンダルを引っかけて出て行く母さんを見送ってから、私は二階の自分の部屋に上がる――。
――小学生の頃、私の居場所は押し入れだった。
別に部屋が無かったわけじゃない。
古民家になりかけの実家だ。敷地は広くて部屋数も多くて余ってたし。
壁に背中が着いていないと不安というか、怖かったのだ。
広すぎる空間そのものが苦手だったのもある。
当時、学校のカウンセラーさんから精神的な病気の名前を聞いた。
カウンセラーさんは、母さんには『多感な時期にはよくあることだ』と言ったらしい。
私は別に病気なら、それはそれでよかったけど。
今思えば、余計な心配をかけずに済んだのだからカウンセラーさんに感謝だ。
――暗闇は怖くない。
隙間から差し込む程度の光で十分落ち着くから。
だから私は、押し入れに“居る事”が好きだったのだ。
そんな私も今年で三十歳になる。
押し入れのふすまを開け、堅苦しいスーツの上着を脱ぎ、潜るように下の段に入り込んだ。
昔よりは圧迫感を感じるが、今でも収まることは出来る。
内側からふすまを閉めると、僅かな隙間から入り込む光。
私は光を頼りに、柱の一本の木目に触れる。
この木目は、私が触れた瞬間から静かに“瞬き”始める。
『久しぶりだな真冬よ。また、手助けが欲しくなったのか?』
ああ、この声を聴くのは何年ぶりだろう。例えようもなく懐かしい。
「……うん」
『憎いのは、同じ部署の先輩、木全だな?』
「うん……」
『文句ばかり言い、揚げ足ばかり取って、言い方ひとつとっても人が嫌がる言い方をあえてする。挙句、誇張した物まねでする陰口が本当に鼻につく。聞く方の気持ちも考えない嫌な女の典型だな。……真冬よ、よくここまで我慢したな』
「うん……」
『ふっふっふ、さて、どうやって苦しめてやろうか』
そのうち木目は、黒い触手をうねらせ眼玉の姿を象った。
妖怪アニメの敵に出てきそうな姿だ。
ああ、よかった。昔のままだ。
泣いてしまいそうなほど、彼の姿は懐かしくて。
「……また会えたね」
『ふっふっふ、当然だろう』
そんな“彼”は、昔から私に優しかった――。
――“彼”が初めて現れたのは、小学三年生の時だ。
「真冬、これ、お父さんの連絡先だから」
そう言ってお父さんは、私にメモを握らせ、カバン一つで出て行った。
大人の事情という奴だ。
その日の夕食時、食卓では普通だったのに……。
夜、ふと目が覚め、階段を降りると、居間でお爺ちゃんは怒ってた。
お母さんは泣いていて、お婆ちゃんは、そんなお母さんの背中をさすってた。
そんな光景を盗み見てしまった私は、足音を潜めて部屋に戻った。
そして冬布団の詰まった押し入れにもぐりこんで息を殺した。
『うしろめたかった。そうだな?』
「うん」
『別にお前は悪くないのに、父親に連絡先を渡され、受け取ってしまった事が家族を裏切っているようで後ろめたかったのだな?』
「……うん」
彼は、木目から至極当然のように現れ、私も彼の存在を平然と受け入れてた。
『母を悲しませた男に復讐をするか? そうすれば、お前の後ろめたさが晴れるのだろう?』
「うん」
『よし分かった。だが、今は頃合いではない。その時を合図するから待つがいい』
「うん、分かった」
彼は、いつでも私の気持ちを分かってくれていた――。
――その年の運動会。
「お前んち、父ちゃん出てったよな」
父親参加の競技で、同級生の一言が私を突き刺した。
悪気がないのは分かる、子供なんだから。
でも私だって子供だったから当然もの凄く悲しくて、後ろめたさも“ぶり返して”きた。
だけど母さんが隣にいたから、その時は一生懸命我慢してさ、笑ってごまかした。
そして、家に帰ってから押し入れの中で泣いた。
『“でりかしー”の欠片もない奴だな。真冬よ、よく我慢したな。では復讐するか?』
「……うん」
『よし、ならば“カンゼンハンザイ”の策を授けてやろう。だが、頃合いが大事だ、待てるな?』
「うん」
“彼”はなんでも理解してくれて、いつも優しかった。
そして、時には完璧なプランを立案してくれた。
『欅の坂で突き落とせば、目撃者にも見つからず完璧だ。だが、夏休み中は避けた方がいい』
けど……、不思議と実行するタイミングは一度も訪れなかったっけ――。
――私は笑ってしまった。
『真冬、木全に復讐するか?』
「ううん、付き合うのも馬鹿らしいからさ、こっちで仕事探そうと思うんだ」
『そうか。それもお前の選択だ。尊重しよう』
彼は今も優しかった。
「ありがとうね。元気出たし、踏ん切りもついたよ」
『そうか、では、そんなお前に真実を教えよう』
「うん、なあに?」
『お前の母はな、お前は笑えてるつもりでも、お前が悲しい事をちゃんと気が付いていたぞ』
本当に彼は優しいなぁ。
けどね、
「……うん、知ってた」
薄々だけれど、そうじゃないかって思ってた。
特有の、僅かな間がそうじゃないかとは思ってたんだ。
『そうか。では、もう一つ教えよう』
「うん」
『俺は、存在しない』
「あはは、それも知ってた」
やっぱり彼は、もの凄く私に優しかった。
世間的には病気なんだろう。
そして、その病気が再び発症したのだ。
だけど、それがなんだ? だからどうした。別にそれでもいいじゃないか。
そのおかげで私は、人生を“間違わなかった”のだ。
「ありがとう、私のバックベア――」
『おっと、その名前は口に出すなよ?』
「そう? そっか、そうだよね。なら、黒目玉様でもいい?」
『ふっふっふ、ほかなら好きに呼ぶがいい』
彼の正体は幼少期に見た妖怪アニメの中に登場したキャラクターだ。
そして、今もうちの押し入れの、木目の中に住んでいる。
彼は本当に、優しいから、私も、私の中の彼を全肯定する。
「ずっと、一緒にいてくれる?」
『ふっふっふ、お前が望むならな』
唐揚げの油の臭いが二階にまで上がって来た。
あぁ、懐かしい感じだ――。
――夕食の時、私は決意を母さんに告げる。
「母さん。私、会社辞めて実家に戻ってもいい?」
「いいに決まってるわ。あんたの家なんだから」
二人の食卓は、温かくて、おいしくて。
母さんも、彼と同じく私に優しかった。
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