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 狭い西の部屋で目を覚ましたネトラがまず見たのは、天井だった。かなり年季の入った木でできている。7年前にネトラがこの家に引き取られてからずっと見てきた、ありふれた天井だ。  ネトラはそこに、夢で見たあの星空を重ねてみる。本来空は背景でしかないはずなのに、ネトラはどうしてか、あの美しさを、きらめきを、忘れることができない。あの夢を見た後はいつも、しばらくすべてのものに星が浮かんでいるような気がするのだ。  その透明な輝きに触れてみたくて、夢の中のあの人のように、ネトラは天井へ手を伸ばす。もう少しで触れられそうなところで、星は、急に異常なほど光り始めた。赤黒い、捻じ曲がった光だ。それにネトラは怯み、また7年前のことを思い出す。 (見たことある。この光を。この残酷さを、あの日)  やがて膨れ上がった星は辺り一面を巻き込んで爆発する。そして、さっきまで無数の星が瞬いていた夜空を一瞬にして拭い去り、後には、普段通りの木製の天井が残るのみだった。 (ふう)  その変凡さを無情だとすら思いながら、ネトラは手を下ろし、ベッドから起き上がった。階下では、もうすでに朝が始まっている。食器を運んだり工房を開く準備をしたりする朝の音を聞きながら、ネトラは着替え始めた。  木綿でできたごわごわするワンピースと使い古したエプロンを身に着け、横の髪を引っ張って後ろで束ねると、ネトラは急いで下へ降りていった。  冬、工房の朝は早い。日が昇ると同時に稼働し始め、世間一般の人々が起き出す頃には開店準備を整えておかなければならない。  台所に行くと、この家の主人ラーヘルの妻であり女将さんとも呼ばれているミーシャが、せっせと料理をしていた。入ってきたネトラに気づくと、パンを焼く手を止めずに口を開く。 「ああ、起きたかい。おはよう、ネトラ」 「おはようございます」 「食事はそこ。棚の上に置いといたから。ぱっぱと食べて、店の方へ行っておくれよ。それからパンだけど、今窯に入れたところだから、焼き加減を見といてくれるかい。あたしはマドゥルを起こしてくるからね。全く、何をやってるってんだろう、あの若職人は?」  ぶつぶつと文句を言いながら台所を出て行くミーシャを見送ったネトラは、マドゥルが朝から悲鳴を上げることにならなければいいなと思いながら棚の上の朝食を小さなテーブルに置いた。あの分だと、相当折檻を受けるだろう。職人なのにネトラよりも遅起きなので当然と言えば当然だが、それでもやはりかわいそうだ。  冬になって店が始まると、朝はとても慌ただしく過ぎていくので、ネトラは居間に行くのも惜しんで台所で朝食を摂る。とかく、早さが要求されるのだ。  小さな乾いたパンにジャムすら塗らずに大急ぎで口の中へ押し込め、スープを飲み干したところで、ミーシャに連れられてマドゥルが現れた。眠そうに眼を擦った後、欠伸をしながらネトラの向かい側に腰を下ろす。 「ふぁ、ネトラ、おはよう。教えて欲しいんだけど、なんでそんなに早く起きられるんだ?」  これは、足に冷水でもかけられたかと思いながら、食べ終わったネトラは席を立ち、一人用のテーブルをマドゥルに譲る。 「夜に遅くまで起きて研究するような時間が私にはないからだよ、マドゥル兄さん。早起きは、早寝から始まるんだから」 「わかってるんだけどなあ。やっぱり、朝に起きられるか起きられないかっていうのは先天的なところもあると思うんだ、俺は」  情けないマドゥルの言葉になんと返したものか考えながら窯に向かったネトラだったが、彼女が口を出す前にミーシャの鋭い一言が飛んだ。 「そんなことを言ってる暇があったら、さっさと食事をしな! 本当にだらしないったらない。一応にも職人だってのにさ。アメニアなんてとっくに起きて働いてるよ」 「はあ」  げんなりと息を吐くマドゥルの前に、窯から取り出したばかりのパンと器に注いだスープを置いて、ネトラは入り口で自分を待つミーシャの元へ走っていった。 「はい、ご飯、ここに置いとくね。私、お店に行って来る」  台所を出ると、ミーシャと共に階段を下る。三畳ほどの狭い部屋では、ネトラの姉代わりであるアメニアが一人、二つに分けて結った赤い髪を揺らしながらまめまめしく働いていた。洗濯場へ行くミーシャと別れ、ネトラはアメニアを手伝いだす。  部屋には、ネトラの体ほどの大きさの箱が所狭しと積まれている。作業はもっぱら、この箱を前にあるものから順に、隣の部屋にあるカウンターに運ぶというものだ。それぞれの箱には名前が書かれているので、分類しながら置いていく。それをひたすら繰り返す。 「ありがと、ネトラ」  部屋から戻ってきたアメリアが、その額に軽く汗をかきながら言う。それに、ネトラは慌てて首を振った。 「ううん、本当は、私がやらなきゃいけないことだもん。アメリア姉さんには姉さんにしかできない仕事があるのに」 「大丈夫よ。そもそも、この量をネトラが一人で運ぶなんて大変なんだから。一つ一つの箱が軽いとはいえさ。……あ」  ゴーン、ゴーン、と鐘が鳴る。平民たちにとっては、仕事開始の合図だ。アメリアは新たに箱を持ち上げようとするネトラの手からそれを奪いながら顎をしゃくる。 「ネトラ、表に行って、看板かけてきて」 「あ、うん」  部屋の隅に置かれていた看板を抱え、ネトラは大急ぎで勝手口へ走る。外に出ると、梯子を立てて店先の屋根に上り、看板を取り付け始めた。これは常にネトラの仕事だ。7年前ここに来てからずっと、変わったことはない。  取り付けが終わると、ネトラは慎重に梯子を下り、看板を正面から見た。  位置は良し。曲がっていないし、丁寧に扱っているから看板そのものに歪みもない。木彫りのそれは、ネトラの父が仕事の合間に作ったものだ。立派すぎず簡素過ぎないその縁取りも、書かれている文字の配置も、絶妙のバランスを保っている。  まだ仕事は始まったばかりだが、あの夢を見たからだろうか、いつも以上に達成感が込み上げてきて、ネトラは口角を上げた。 『ジャフリー星工房』  ここでは、星を作っている。
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