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薄紫の膜が、すり鉢の底みたいなこの街を覆う、朝焼け。
明け方の夢に映るあの人は、まだ真っ黒だったおれの髪を撫でて笑う。
「泣くな泣くな。泣くと幸せが逃げるんだぞ」
優しい響きに声色に、でもおれの瞳からはさらにぼろぼろと大粒の涙が零れた。
「……そうなの? どうしよう、逃げちゃった。おれの幸せ、もういっぱい逃げちゃった……!」
半分覚醒したような奇妙な心地の思考で、そうきたか、と苦笑する。人の話を断片的にしか聞く気のない子どもの思考は厄介だ。まぁ、おれのことなんだけど。
あの人は、おれの言葉に一瞬表情豊かな瞳を見開き、それからがははと豪快に笑った。
「そうか、そうか。そうだなぁ。そんじゃあ、逃げちまった分を補給しないといけないな」
「……?」
おれの髪を撫でていた手が、色落ちしかけた袢纏の懐を探る。すぐに、小さな包みを取り出した。
「これを食べな。涙で逃げてった幸せが、甘いのに釣られて帰って来るから」
覚束ない指先で、恐る恐る手を伸ばす。この手がその包みに触れる前に、きっと目が覚めてしまうことを、大人になったおれは知っている。でも、知りたいのだ。思い出したい。
あの人の笑顔も、優しい声も、柔らかな掌も。
そして、おれが逃がしすぎた「幸せ」を呼び戻してくれるはずの、あの魔法の包みの正体も。
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