零:和菓子屋奇譚

6/10
前へ
/126ページ
次へ
「今度、柚子と一緒にうちに来い。美味い菓子食べさせてやるから」 ロクなもののない記憶の中から、辛うじて摘まみ出せるのは、甘くて優しい香りだけだ。オプションで浮かんでくる嫌味な笑みは無駄に鍛えた精神力で抹消し、湧太を安心させるようにわしゃわしゃと短い髪を撫でてやった。 「ほんと? ありがとう、旭」 「おぅ。学校遅れんなよ」 「うん! じゃあ、またね」 ぱっと表情を輝かせた湧太は、軌道修正とばかりにいつもの声の調子に戻り、元気よく手を振りながら急ぎ足で去っていった。その後姿を見送り、ふぅと小さく息をつく。可愛い弟分を励ますためとはいえ、朝から嬉しくない記憶と直面することになってしまった。 今頃どこをほっつき歩いているのかもわからない、おれの記憶に棲みついているロクでもない男。おれの、そもそもロクでもない記憶にさらに鮮烈な彩を添えてくれた奴のことを、一体どんな表情で思い浮かべればいいものか、おれはいまだにわからない。わからないから感覚に任せると、結局は苦みと渋みの絶妙なブレンドを口いっぱいに含んだときのような表情になる。 こんな顔で店頭に立っていては、元々少ない客もさらに遠ざかる。そう自分に言い聞かせてなんとか表情を緩め、さぁ開店と意気込んだところで、まるでどこかでタイミングでも見計らっていたかのように、その「災厄」は現われた。
/126ページ

最初のコメントを投稿しよう!

32人が本棚に入れています
本棚に追加