後宮のいかさま男装占い師

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 どこまでも青く晴れ渡る空の下、後宮では園遊会が開催された。  後宮の奥に広がる園林で、妃嬪や女官、宦官まで参加する大規模なものだ。目的は皇帝の気晴らしのため、となっている。表向きは。  提案したのは春燕だった。下手人に動きがないならこちらから仕掛けてやろうというと、瑞薛は渋い顔をしたが浩宇や仔空は賛成してくれた。  春燕はこの園遊会で柳淑妃以外の四夫人の心を読むつもりでいた。  今、四夫人の座は柳淑妃、()賢妃(けんひ)(しゅう)徳妃(とくひ)が埋めている。貴妃は空位だ。  柳淑妃にはすでに異能を使っており、特に呪いに関する情報はなかった。残る李賢妃や周徳妃は、籠絡するのに時間がなくこれまで接触できなかったのだ。  だが瑞薛の供の占い師として会えば、触れる可能性が高い。 (陛下を呪殺しようなんて大それたことを考えるのは、ある程度の身分の人間ではないかしら。呪術師を探し出すのだって伝手も金子も必要だし。そうでなくても四夫人の立場なら、後宮内部の動きについては詳しいはず。やってみる価値はある)  春燕はひっそり両手の拳を握りしめ、園遊会に臨んだ。  園林の中央には大きな湖が作られ、それを囲むように木々が植えられている。今は(はぜのき)が紅葉し、燃えるように赤い葉が、湖の透き通った水面にいくつか浮いていた。  そんな枝葉の下、一番心地よい風が通る場所に緋毛氈が敷かれ、床几や小卓が据えられている。そのうちの一つに腰掛けた春燕は、先ほどから眼前の光景に目を奪われていた。 「もう、陛下はどうして妾の宮にいらしてくださらないのですか?」  甘えた声で瑞薛にしなだれかかるのは周徳妃だ。やや幼い顔立ち、丸い瞳にふっくらした唇が愛らしい。彼女が話すたび頭に挿した桃の華飾りが揺れる。細い腕を瑞薛の左腕に絡め、豊かな胸を押しつけるようにしている。  彼女は真っ先に瑞薛の元にやってきて、全力で甘えにかかっているのだった。  瑞薛のこめかみがぴくぴくと引き攣っている。最初は適当にあしらっていたが長いこと徳妃がこうなので、もはや無視して饅頭などを食べ始めている。片腕が塞がっていて食べづらそうだわ、と春燕が思っていると、何かするなら早くやれ、とものすごい目で睨まれた。 (い、いけない。徳妃の迫力に圧倒されていたわ。正直、心を読むまでもない気がするけれど……いえ、先入観は良くないわね)  さて、どうやって周徳妃に触れるか。  春燕が口を開きかけたところで、徳妃がぐるんとこちらを向いた。 「そうそう、あなたが燕さまね! 陛下の気に入りの占い師だって言うじゃない。どうぞよろしくね」  白魚のような手でがしっと春燕の手を掴む。その瞳にはぎらぎらとした野心の光が宿っていて、春燕はいっそ感心してしまった。 (すごい! 見境がない!)  頭に徳妃の思考や記憶が映る。彼女は貴族官吏の娘で、その美しさと愛嬌で徳妃の座まで上り詰めたらしい。先帝崩御のあと、践祚式で瑞薛を見て一目惚れし、今の後宮で一番になりたいと切望している。そのためならなりふり構わないようだ。今日の園遊会は瑞薛に近づく絶好の機会だと勇んで参加した。  だとすると瑞薛に呪いをかける理由がない。彼に死なれては意味がない。他に下手人につながりそうな情報もなかった。  徳妃の顔には美しい化粧が施され、頬は薔薇色に染まっている。それを見て、春燕はすとんと納得した。 (徳妃は恋をしているのね)  胸に針で突かれたような痛みが走る。誰憚ることなく野心をぎらつかせて、恋心を全面に押し出して振る舞える徳妃が、ほんの少しだけ眩しく思えた。 (いえ、たとえ同じ立場だったとしても、私は同じようにはできないけれど)  春燕は、徳妃の手を上から包み込むように握り返す。 「周徳妃はとても積極的な方のようですね……でも、どこかご自分の感情を隠してしまうところもある。感受性が豊かなのでしょうね」 「えっ⁉︎ そう! そうなのよ。妾、繊細なの。だから、李賢妃みたいなキツい人とは上手くいかないの」 「いくつか……わかり合えない価値観がありますね」 「李賢妃は、妃嬪としての格を守れとか、慎みを持てとか、小煩いことばっかり。妾には合わないわ。妾は新しいことが好き。慎みなんてうんざりだわ。表に出さない心なら、存在しないも同然じゃない?」 「あら、ずいぶんな言いようね」  突如その場に凛然とした声が響いて、春燕はゆっくりと顔を上げた。  きりりとした顔立ちの美女が春燕と徳妃を睨みつけている。後ろには女官を引き連れていた。 (急に来た‼︎ こ、この方は誰⁉︎)  心の中で叫んでいても、いかさま占い師は慌てない。何もかも天眼で見透かした通りだというふりをするのだ。  徳妃がにんまりと唇を歪める。甲高い声でまくし立てた。 「あら、李賢妃。今は妾がお話しする時間よ。横入りだなんてあなたのお好きな妃嬪の格に反するんじゃない? それとも本当のことを言われたから、黙っていられなくなったのかしら」 「こそこそと人の陰口を叩く方がよほど格を貶めるわ。環境が人格を形作るのよ。あなたは徳妃になってずいぶん長いのに、ちっともそれらしい振る舞いができるようにならないのね」  李賢妃は、緩やかに波打つ髪を一筋の乱れもなく結い上げ、一本の銀の釵できっちりまとめていた。身につける襦裙も髪型も取り立てて飾り気がないが、その分彼女自身の美しさを際立たせている。  付き合っていられない、というように頭を振ると、李賢妃はついと腕を上げて拱手した。その指にはいくつも指環が嵌まっていて、日差しを受けて輝石が小さく光る。 「陛下におかれましてはご機嫌麗しく。最近、天眼の占い師とやらを雇ったとか」  黒曜石のような切れ長の瞳で、李賢妃が春燕を見据える。 「占い師などという胡乱な輩を重用するのはあまりよろしくありませんわ。お控えなさった方がよろしいのでは」  瑞薛がちらと目を上げた。冷ややかな口調で、 「ほう、俺に上申するか」 「間違ったことを申したとは思いません。わたくしは賢妃ですもの。陛下が足を踏み外しそうになったら、お支えするのも妃嬪の役目。そうではありませんこと?」  怯む様子もなく言い切ってみせる。春燕は内心で拍手していた。普通、皇帝が占い師に頼り始めたら落日の始まりだ。だが皇帝相手に正論をぶつけられる人間は多くない。徳妃に対する態度といい、一本芯の通ったまっすぐな人柄に思えた。 (でもそうすると……なんだかあの指環が気になるわね)  らしくない、と思ってしまう。全体的に着飾ることを重視していなさそうなのに、指環だけは何個も付けている。賭場でもよくこういう破落戸を見かけた。余計なことを考える博徒ほどごちゃごちゃと指環をつけたがる。  春燕は思考を巡らせて、李賢妃に向き直った。 「賢妃、私たちの間には誤解があるようです。どうか、一度だけお話しさせていただけませんか?」 「わたくしは賢妃よ。下郎が気安く話しかけていいと思わないで」 「ああ、やはり……」  春燕は物憂げにまつ毛を伏せて、片手で目元を覆った。 「私には、李賢妃が矛盾を抱えているように見える」 「な、何を出まかせを! 適当なことを言わないで!」  賢妃の声が高くなる。片手を振り上げて、春燕の頬を張ろうとした。  ぱしっ、と乾いた音が鳴る。痛みを覚悟して奥歯を噛んでいた春燕は、おそるおそる顔を上げた。  立ち上がった瑞薛が、賢妃の腕を強く掴んでいた。賢妃を睥睨する瞳は底冷えしていて、春燕はあの楼閣の夜を思い出す。月光の届かない楼閣の奥にわだかまっていた、兇手が身を潜める闇を。  瑞薛が冷たく言った。 「……俺の前で、この者を傷つけることは許さない」  賢妃が薄く唇を開け、それからわなわなと震え始める。春燕は穏やかに割って入った。 「私が不躾すぎました。どうかお許しください」  賢妃の腕に触れて、瑞薛の手を引き剥がす。賢妃の白い肌には指の痕が赤く残っていた。  頭に賢妃の記憶がよぎる。賢妃は先ごろ更迭された、吏部侍郎の娘だった。  先帝時代に好き放題していた吏部侍郎への処分は当然という理性、育ててくれた父への愛、父を更迭した瑞薛への恨み、賢妃として皇帝を支えねばならないという矜持、その賢妃の立場ですら、民を虐げた父の力によって成り立っていたという現実、彼女を取り巻く全てが心を千々に乱して苛んでいるらしかった。  唇を固く引き結んでこちらを見る賢妃に、春燕は言った。 「李賢妃、南に吉兆が見えます。確か、南の山の麓には後宮の離宮があったのではないですか? そちらへ赴くと良い出会いに恵まれるでしょう」 「何をペラペラと。でも……そうね。あの離宮はしばらく誰も使っていないから、様子を見にいく必要があるわね」  賢妃が目線を落として答える。春燕としては、一度後宮から離れてゆっくり静養してもらえれば理由はなんでもよかった。後宮に留まることは彼女にとっても周囲の人間にとっても良くない気がした。  気勢を削がれた賢妃が女官とともにこの場を後にする。去り際、徳妃を回収していくのは忘れなかった。何やら言い争う二人の背中が遠ざかっていくのを、春燕は何も言えずに眺めていた。  春燕とは生き方も考え方も全く異なる二人。もう少し話してみたかったな、と心の隅で思う。  けれど、それよりも今手元にある事実に眩暈がしていた。 (四夫人の心を読んでも、解呪に繋がる手がかりが掴めなかった——!)  賢妃が心の均衡を崩したのは、吏部侍郎が更迭されてから。呪いはそれより前にかけられていたから賢妃は下手人ではない。しかも彼女も呪いに関する情報は持っていなかった。 (どうしよう……どうしたらいい⁉︎ 私に他に何ができるの⁉︎)  ざわりと風が吹き寄せる。櫨の葉が舞い散って、春燕の視界を赤く彩った。 「燕? どうした」  柔く肩を掴まれる。ハッとそちらを向くと、心配そうに眉を寄せる瑞薛と目が合った。その瞳に映る春燕の顔は泣きそうに歪んでいる。天眼を持つ占い師なら、見せてはいけない表情だった。 「陛下……」 「具合が悪そうだ。平気か」 「私の具合より、もっと大切なことがあります。四夫人の皆さまはおそらく下手人ではありません。だから、解呪が……」 「そんなことはどうだっていい。燕の方が大切だ」  真摯に告げられて息が詰まる。瑞薛は一瞬たりとも視線を曲げなかった。心を読まなくたって、それが本気なのだと、肩をとらえる手のひらの熱から伝わってきた。 「いえ、私は……私は」  強く唇を噛み締める。ぐしゃりと前髪を掴んだ。 (私は妃嬪じゃない。贋物の天眼の占い師。でも……だからこそ、できることはまだある)  春燕は顔を上げた。込み上げる熱いものを飲み込んで、平気そうに笑んでみせる。 「もう一つ、思いついたことがあるので、やってきますね!」
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