後宮のいかさま男装占い師

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 顔に当たる日差しが眩しくて、春燕は意識を取り戻した。  体は固い床に転がされている。すぐに直前の記憶が蘇り、痛む節々を押して上半身を起こした。  周囲を窺うと、古い祠の堂内らしい。薄暗い祠の中、漏窓から射す光に埃がきらきらと舞っていた。 「へえ、目が覚めたんですね」  春燕を見下ろすのは楊仔空。柔和な雰囲気は影を潜めて、嗜虐に歪んだ笑みを浮かべていた。  春燕はキッと仔空を睨み上げる。 「仔空さん……あなたも、朱一族の生き残りだったんですね」  仔空に触れた瞬間伝わってきたのは彼の過去。春燕と同じように生き残り、王城に入り、虎視眈々と異能によって瑞薛を呪殺する機会を窺っていた。  仔空が腕を組む。 「あなた『も』、ということは、燕も朱一族の者ですか。あなたの占いは大体いかさまでしたが、時折それでは説明のつかないことがあった。読心能力ですか? やはり、排除しようとして正解でしたね」 「どうしてこんなことを!」 「燕は朱一族として、考えたことはありませんか? 我々は先帝を裏切るべきではなかった、と」  祠の中に静寂が広がる。春燕は顔をしかめた。 「あなたは先帝が正しいというのですか?」 「正しさの話じゃない。我々、特別な力を持つ人間は、そんなことを考えるべきじゃない。善悪の判断などしてはならない。ただ一つの規則に基づいて道具のように動けばいい。僕たちの力がどれほど危険か、燕も異能者ならわかるでしょう。それが勝手に動くのがどれほど恐ろしいことか、想像したこともないのですか」  暗い熱の滲んだ声音に春燕は息をひそめた。仔空の目は不吉な光を灯し、爛々と輝いていた。 「燕は占いのために、きっと心を読んだでしょう。他人の心を読むのに罪悪感を覚えたことは? それがないなら、やはりあなたはここで死ぬべきです」  春燕だって心を読むのは好きではない。でも、後宮では何度もそうした。どうしても叶えたい望みがあったから。  春燕は首を横に振る。目の奥がズキズキ痛んだ。 「そんな風には生きられませんよ。私たちは道具じゃなくて、心のある人間だから」 「へえ、大層なことを言ってくれますね。思うがままに異能をふるっても良いと?」 「そうではなくて」  春燕は話を継いだ。 「確かに異能は恐ろしいものです。それなら異能者には責任があるのではないですか? 少なくとも、異能で誰かを害してはいけないでしょう。仔空さん、あなたは道具にしては不純すぎます」  仔空の顔が歪むのを見て、春燕は畳みかけた。 「本当に自分を道具だというなら、現在の皇帝である陛下に仕えるべきではないですか。それができない時点で、あなたも所詮自分の我儘のために異能を振りかざしているにすぎない。私と同じように」  仔空の瞳が血走って見開かれる。彼が息を吸う音がやけにはっきりと響いた。 「お前などと一緒にするな! たかだか惚れた女を追っかけてきただけのくせに。僕は違う。僕はもっと高尚な——」 「それなら陛下のそばに仕えていて、何も思わなかったんですか? どうして朱一族が先帝を裏切ったのか、少しでも考えたことはありますか? それがないなら、あなたはただの我儘を言う子供です」 「黙れ! 黙れ‼︎」  仔空が春燕に掴みかかろうとする。そのとき、祠の扉が激しい音を立てて蹴破られた。 「——そこまでだ、楊仔空。やっと尻尾を見せたな」  薄暗い室内に外から溢れんばかりの日光が注がれる。春燕はとっさに片手で顔を覆った。その光の真ん中に、瑞薛が立っていた。  ——恐ろしく怒りを秘めた顔つきで。 「貴様の房室からは呪殺の証拠が次々に出てきたぞ。解呪のやり方もな」  瑞薛が腕を振り上げる。長剣を握る右腕からは、呪紋が消え失せていた。  春燕はほっと息を吐いた。それなら春燕の役目は無事に果たせたというわけだ。いかさま占い師としての務めも終わり、雪に会える。  もう瑞薛の近くにはいられないと思うと、心臓が痛い気もするけれど。  それはきっと、異能を使いすぎたからだろう。  瑞薛が乱暴な足取りで祠に入り込み、仔空の前に立ち塞がった。 「燕を傷つけたことを含め、貴様の罪はこれから詮議する。衛兵、こいつを牢へ入れろ」  瑞薛の声に、衛兵が入口からなだれ込んできて仔空を囲む。  これで本当に終わったのだ、と春燕は壁にもたれた。 「燕、よくやってくれた」  瑞薛がこちらを向く。それに応えようとして——。  衛兵に囲まれた仔空の手に、ギラリと輝くものが見えた。  血飛沫が飛ぶ。腕を斬られた衛兵が呻き声を上げる。  仔空は短刀を手にしている。その刃先はまっすぐに春燕に狙いを定めている。それなのに春燕は動けない。体調の悪さと、向けられる剥き出しの悪意に、体が凍りついていた。 「燕!」  決着は一瞬。瑞薛が春燕の視界を遮って、そして。  春燕の目の前で、瑞薛が膝をつく。その胸に短刀が突き刺さっているのが見えて、春燕は悲鳴をあげた。 「陛下!」  床を蹴って瑞薛に飛びつく。彼の袍はぐっしょりと血を吸い、瞬く間に顔が青ざめていった。  苦しげな息の下、瑞薛が薄く目を開ける。それから春燕を見て、嬉しそうに微笑んだ。 「燕は……無事か」 「私のことはいいですから! しっかりしてください!」  春燕の瞳からぽろぽろと涙がこぼれた。こんなときでも春燕を気遣う瑞薛の心が痛かった。  周りで衛兵たちが慌ただしく動いている。医官を呼べ、という絶叫が聞こえる。  腕の中で瑞薛の呼吸はどんどん細くなっていく。これだけ深傷を負い、手当てが間に合うか。  耳元に雪の声が蘇る。  ——その力を使うのは、私だけにして。  異能を使い過ぎて体調は最悪。それにこの務めを終えれば雪に会える。ずっとずっと夢見ていた。そのためだけにここまで来た。最愛との再会まであと少しなのだ。  それでも。  どうしても、瑞薛を、助けたいと思ってしまった。  雪は春燕に愛をくれた。そうして生かされた春燕に、瑞薛が恋をくれたのだ。  愛によって育まれた身を、むざむざ擲ってもいいと願うほどの熱情。それが春燕の知った恋だった。  春燕は瑞薛の手を握る。氷に触れているかのように冷たい。何か記憶や思考が伝わってくるが、全てを無視して魂の同化を深くする。  はっ、と瑞薛が息を呑む。嫌がるように手を振り解こうとするのを春燕は拒んだ。 「今から助けますから、おとなしくしていてください」  脂汗が額に滲む。目は眩んで、頭は鈍く痛んで、息をするのも苦しい。魂の癒着が進んで、胸の皮膚が鋭く裂ける感覚がする。腥い血の臭いが鼻をつく。でも、繋いだ手だけは決して離さなかった。 「やめろ」 「いえ、やめません」  怪我は半分くらい移動させられた。残り半分、やり遂げてみせる。  再度手を握り直したところで、瑞薛が魘されるように呟いた。 「その力は使うなと言っただろ、春燕——」  まさか、と思う間もなく、春燕は暗闇に引きずり込まれた。
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