後宮のいかさま男装占い師

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 名残惜しそうな淑妃に見送られて永寿宮をあとにした燕は、墻の陰でうーんと大きく伸びをした。  雲に覆われた空を見上げ、心の中で独りごつ。 (そりゃだいたいの人間は、夜に不安なことを考えるものよね。当たって良かった(・・・・・・・・)。それにしても、柳淑妃は本当にお綺麗で、女の私でも(・・・・・)ドキドキしちゃったわ)  秋の始めの涼しい風が吹いて、袍の裾を揺らす。男にしては細い体がふらりとよろめいた。 (ただの少女の(しゅ)春燕(しゅんえん)が、謎の男占い師、燕なんてものになりきれるなんて。秘めたる才能が開花してしまったわね!)  燕——いや、春燕はぎゅっと拳を握り、少年とも少女とも取れる顔でニヤリと笑った。  そう、春燕は女の身でありながら男のふりをし、夜な夜な後宮に忍び込んでは妃嬪や女官相手に占いをしてみせているのだった。その言葉は心を読んでいるかのようと言われ、今では天眼であまねく世を見通す男占い師として密かに噂になっている。  だが、春燕は天眼など持っていない。彼女の手にあるのは、彼女が育った賭場で覚えた話術と観察法であり、相手の様子を見てそれらしいことを言っているにすぎない。  彼女が本当に秘めているのは——。 (とはいえ、柳淑妃の話は気になるわね)  春燕はすっと目を細め、辺りに視線を走らせた。柳淑妃は産んだばかりの公主を亡くしている。しかしそれは数年前のこと。鬼がいるとして、なぜ今さら赤子の泣き声が聞こえるのか。  永寿宮の周りをぐるりと歩き、淑妃の寝房のそばで立ち止まる。寝房の花窓の下に女官がうずくまっていた。 「こんばんは」  優しく話しかけると細い背中がびくりと揺れた。女官が勢いよくこちらを振り仰ぎ、手にしたものを胸元に抱きしめる。女官の腕の中で、丸っこい毛玉がもふりと動いた。  春燕は微笑む。 「可愛い猫ですね。雌ですか? 繁殖期は大変でしょう」  女官の顔がみるみるうちにこわばっていく。それでもなお美しい容貌に、さすが後宮、女官も美人揃いねと呑気に思う。  女官の腕から毛玉がぴょこりと顔を出した。つぶらな瞳を瞬かせ、にゃあん、と発情期特有の人間の赤子めいた鳴き声をあげる。  女官が声をうわずらせて言った。 「ち、違うんです! 柳淑妃を困らせるつもりではなく……ただ、外から迷い込んでしまったようだったから、少しだけ世話をしていただけなんです!」 「本当ですか?」  妙に乾いた声色だった。ざわり、と辺りを囲む木々がざわめく。星の散る夜空の下、春燕の黒い瞳が不穏な光を宿した。 「あなたは先帝のお手つきだった。一夜だけだったのに子供まで孕んだのですね。けれど、それを妬んだ柳淑妃に堕胎させられた……。もうすぐあなたは退官する。だから今、仕返しをしようと猫をつれてきた。発情期の猫の、赤子に似た鳴き声を利用して、娘を亡くした柳淑妃を怯えさせるために」 「ど、どうしてそこまで……」  女官が唇をわななかせる。春燕は微笑みを崩さず、宣託を告げるように言い切った。 「私は天眼を持っているのですよ。なんでもわかります」  もちろん嘘である。  春燕は永寿宮に忍び込んだときに、この女官の目つきが妙に暗いのが気になった。よくよく見ると、襦裙の袖に獣の毛がついていた。そこまでは観察。  そうして、よろめいたふりをして女官に触れ——その魂に憑依した。  それこそが春燕の持つ本当の異能。我が身に魂を下ろす巫の技。相手に触れることで他人の魂と同化して、その記憶や思考を読み取ることができる。触れるだけで相手の魂に近寄ってしまうため、普段はできるだけ肌を覆い、誰にも触らないようにしている。  謎の男占い師、燕の天眼の秘密はここにあった。観察や話法では補いきれない過去や感情を読み、もっともらしく言い当ててみせるのだ。 (人の心を勝手に覗くなんて良い気分ではないのだけれど)  女官がどんどん青ざめていく。春燕はうっそりと微笑したまま、一歩、女官に近づいた。女官がその場をざっと退る。  春燕は膝をつき、猫に手を伸ばした。猫がくんくんと鼻先をうごめかせ、シャッと威嚇する。春燕はおとなしく手を引っ込めた。 「この子の行くあてはあるのですか?」 「は……?」 「あなたの憎悪はあなたのもの。やめろなんて言う権利は私にはない。ただ、人間に利用されて捨てられる猫を見逃すことはできませんから」 「……責任を持って、私が実家に連れて帰ります」 「ならば、よろしい」  春燕は立ち上がり、今度はさっぱりした笑みを浮かべた。まだ震えている女官の顎を、甘えるように猫が舐める。 「ずいぶんあなたに懐いているようです。小さな獣の信頼を裏切らないように」  女官は温もりを確かめるように腕に力をこめた。にゃおん、と小さく猫が鳴いた。
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