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【第一部】1、黒薔薇
甘く香る。
この薔薇園を最初に造ったのは誰だろう。
薔薇があったから、ここに屋敷を建てたのだろうか。
家紋にまでして、気高く、紅く。
芽吹いて枯れるまで、自然のままで許される。
どこにも嘘はない。
(羨ましい……)
誘われて、紅の薔薇に囲まれても、自分は闇だ。
この闇色の髪は薔薇色にならない。
いくら瞳の色が紅くても、この手に触れるのは黒く冷たい髪。
黒薔薇はどこにも咲かない。
だから、髪を切り刻んでいく。
ここに黒は要らないから。
ローズ・レディングは自分の名前を気に入っていた。
紅い瞳を囲う美しい虹彩が薔薇のようである、それが由来だ。
彼女が成長するにつれ、周囲からは感嘆の吐息が漏れた。
「ルビーのような瞳は気高く、赤毛は艶やか、薔薇のように美しい令嬢だ」
そう賛美されるたびに、頬が紅潮し、肌や髪の手入れに余念を許さない。季節が過ぎると薔薇は枯れるけれど、彼女の美しさは磨かれ続けていく。
ローズは自身の限界に挑戦することを好んだ。五歳の頃よりピアノと絵画を習い、努力を惜しまない。意欲的な少女は学校の勉強でもすぐにトップクラスに入った。明朗快活、物怖じしない性格は友人にも教師にも好かれ、後輩たちからは羨望される。レディング家は王宮にも出入りする一族で、ローズの社交界デビューを心待ちにする貴族は紳士淑女ともに多かった。
才色兼備とは、まさに彼女のことである。
けれど、ある日を境に一変する。
「何がローズ? ブラックローズじゃない!」
ローズには秘密があった。
父や兄とお揃いの美しい紅は瞳だけで、赤い髪は偽りなのだ。
この国では珍しい闇色、漆黒の髪であることが、十八歳の学校卒業を前に皆に知られてしまったのである。
異端を攻撃する、何て愚かしいことだろうと思うが、学校という狭い世界では成り立ってしまうのはどの階級に生まれようと変わらない。
髪を赤く染めたきっかけは、幼い子ども心に過ぎない。当時、五歳の彼女の子守りをしていたメリッサはそのときの会話を覚えている。
「お父様とお兄様は、紅の美しい髪色をしているわ」
「ローズ様の瞳と同じですね」
「どうして、私の髪はこんな闇色なのかしら?」
「闇色なんてとんでもない! 艶やかで美しい、流れる滝のようでございますよ」
レディング家当主、奥方、共に愛人がいることは使用人たちの間では周知のことだった。だからといって、不吉な想像をしていいわけではない。
だが、ローズの瞳は確かにレディング家由来、誰よりも紅く美しい。それはローズが産まれたときに皆が絶賛したことだ。ローズの母の髪がオレンジ色の巻き毛ではなく、ローズと同じ黒髪だったのなら良かった。そうすれば、何も問題はなかった。母方の遺伝だと言ってしまえたのなら。
この国で黒髪は珍しい。メリッサも、他の使用人たちもこの小さなプリンセス以外に黒い髪を持つ者を見たことがない。けれど、それは些細なことだ。雇われ人にとって、髪色よりも、どういう主人に仕えることができるのかが重要なのだ。
ローズの溌溂とした愛くるしさは周囲を明るくしてくれていた。
好奇心旺盛な少女が、利発な淑女に成長することは想像に難くない。
ただ少し、家族愛に満ちているかといえば、そうではない。仕事で忙しい当主、社交界の交流に浸る奥方、頭脳明晰の兄は十歳離れていることもあってか妹に関心がない。
「私もお父様やお兄様と同じになりたい」
ローズは何度となくそう漏らした。
五歳の少女が家族の温もりを欲していることは、使用人たちの目から見ても明らかだった。来年には学校に通う年齢となる。屋敷内だけの生活ではなくなる。友達を作り、他の家庭を知り、どう思うだろうか。
子ども心に、何かお揃いでありたい、そうなればもっと家族と仲良くできるだろうと絞り出した精一杯の考えがその言葉には込められていた。
「……では、髪を染めてみますか?」
その提案をメリッサはいまや後悔している。もちろん、メリッサ一人の責任ではないだろう。ローズは染めることを望み、両親も頷き、使用人皆が、「美しい!」と褒めたたえた。
『レディング家由来の素晴らしい髪色に染まった!』
そういう意図が含まれていたことを、五歳の少女にわかるはずもない。
ローズは鏡に映る赤毛の自分、瞳の色に似合ったそれが本来の自分だったのだと信じ込むようになり、それから十年以上染め続けてきたのである。若いメイドたちは彼女の髪が人工的な色であることを知らない。いつしか、ローズの黒髪に触れることができるのは染めるのを手伝うメリッサだけとなっていた。
小さな違和感を誰もが直視しなかった。
ローズは十八歳となり、学校を卒業するまで一か月ほどとなっていた。
髪色が露見したのは、名誉の負傷といっていい。メリッサは、そう叫んでやりたい。
学校主催のパーティーで、酒を持ち込んだ生徒がいた。その生徒と教師が揉め、間に入ったローズは頭から酒をかぶってしまう。多少の水なら問題はないのだが、アルコール成分に髪染めは反応してしまい、ローズは衆人環視の前で黒髪に戻ってしまった。
美しいローズが黒薔薇と呼ばれるようになったのは、そのときからである。
「……仕方なかったわ。あんなに度数の高いお酒、むしろ、他の子が浴びなくて良かった」
「どこかの時点で髪染めをやめることを、私が助言していれば……」
「そんなこと言わないで、メリッサ。私はお父様やお兄様と同じになれて、あなたには感謝しかないのよ」
責任感の強いローズは自分の中傷よりも他者を思いやる。発端である校則違反の生徒を恨むこともしない。そうやってローズが笑うからこそ、余計にメリッサは五歳の少女に何てことを提案したのだろうと当時の自分を腹立たしく思う。
学校ではその後も数々の誤解が溢れ返り、
「嘘つきの、ブラックローズ!」
と、友人たちからは距離を置かれ、
「悪女!」
「男たらし!」
そうまで呼ばれるようになってしまったのだ。
健やかに育ってきた令嬢に、人の悪意は容赦ない刃だった。
メリッサからすればどれも妬みや濡れ衣からの暴言で、ローズが傷つくことは何一つないことだった。
これまで培ってきたものは、ローズを守ろうとしない。教師たちでさえ、卒業までに面倒ごとを起こしたくないと口を噤んでいる。
真実ではない汚名なのに、ローズは否定しない。
髪染めで誤魔化していた自分にまず、非があると考えている。
人を責めず、自分を責める。
学校を卒業すると、もう外には出なくなった。
髪も染めなくなった。
自慢のお嬢様は、いまや社交界デビューもできない、いわゆる引きこもりとなってしまったのだ。あとひと月で二十歳の誕生日を迎えようとしているが、昨年同様パーティーを開く予定がない。
レディング家の令嬢だ、盛大に祝って然るべき身分だというのに!
ローズが子どもの頃に出て行った母親には何も期待できなくとも、父親である当主は娘のことをどう考えているのだろうか。
「何も言わないで、メリッサ。私は自由よ。ピアノを好きなだけ弾いていられるのだから」
あれほど堂々と闊歩していた美しい令嬢が、悪夢にうなされ、人前に出ようとすると吐いてしまう。あれほど愛でていた庭園から目を背け、昨年には薔薇園で髪を切り刻むという狂気にまで侵された。
それを自由というのだろうか。
「……もう、髪は切らないでくださいね」
「わかってるわ」
メリッサはローズの長く艶やかな直毛に櫛をとおしながら、涙を堪えた。
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