44、きらきら星

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44、きらきら星

 午後からは予定通りに、ローズはクライン家に出向いた。  アリシアとティアに芸術祭の話をすると、二人は同じようにサファイア色の瞳を輝かせた。ティアは金糸の髪をふわふわ揺らして、飛び跳ねている。 「芸術祭って、王都よね⁉ わたしも行く!」  クライン領の端、田舎暮らしと称するこの土地はティアにとっては退屈なものらしい。クライン当主が普段は王都で生活して仕事をしているのだから、父親に会えないのも寂しいのだろう。 「初日に、ピアノを弾くことになって……」 「あらあら、楽しそう」  アリシアの美しい声と微笑みが、ローズの不安を払拭していく。この麗人に促されると、誰でもそういう気持ちにさせられる。ピアノの腕に自信なくとも、楽しく弾くことはできそうだ。 「お母様も行きたいでしょ⁉」  小さな天使は、王立劇場を想像して興奮気味である。 「ティアが好きな曲を弾こうと思うのだけど、何がいい?」  ローズの問いに、ティアは少し考えて、 「きらきら星!」  と、元気よく答えた。先週の熱中症の影はどこにもない。ローズはホッとして、ピアノの前に行き、『きらきら星』にアレンジを加えて弾いてみた。 「まぁ、素敵!」 「……パ、パパの次にだけど」  二人の感想に、ローズは笑った。 「ティアも、弾いてみない?」 「ひ、弾けないわよ! わたしが弾いても、音は鳴らないし……」  五歳の指で、グランドピアノは容易には鳴らない。それを理解しているということは、鍵盤に触れたことがあるということだ。 「大丈夫。私もそうだった」 「……あなたも?」 「ええ、だから『ド』から練習するの」 「ど、どうやって?」  恐る恐る近寄ってくるティアに、ローズはピアノの前から立ち上がって、椅子の高さを調節する。少し高くなったが、ティアはむしろ自信満々にその椅子に座ってみせた。  右利きであることを確認し、右の親指が『ド』にくるよう教えた。ティアの体が力んでいたので、肩に力を入れるよう声をかけストンと落とさせた。力が抜けたまま、太鼓をたたくみたいに指を上げて下ろすよう伝える。腕の重みだけで音を鳴らすのだ。  ド、ド……ド……。 「鳴った!」  ティアの喜びはローズの喜びだった。アリシアも同様だろう。彼女は口元に人差し指をあて、そっと部屋を出て行った。ティアのレッスンを任されたのだと、ローズは心が躍った。  二人で音を鳴らすことを楽しんだ後、リズムの取り方は手拍子で教える。ティアはアンリやアリシアの音楽に触れているからだろうか、とても優秀で素直に吸収していく。最後には、ティアが鳴らす一音にローズは即興で音を紡いで合わせた。 「曲みたい!」  生徒の笑顔がこんなにも煌めかしいものだと、それこそきらきら星のようだと、ローズも嬉しくなった。  学生の頃、皆の代表として頑張っていたときよりも、充足感に満ちている。程よい緊張は必要だけど、それが程よかったかどうかはいまとなってはわからない。無理をしていたのかもしれない。聞こえているのに聞こえていないふりをした噂もあった。黒髪がバレたことで、無意識の領域に寄せていたものが、溢れ返ったのだ。現実でも心内でも。  いまは違う。引きこもりから救ってくれたピアノを、音楽の力を伝えていく。ティアにも、芸術祭にも。
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