雨の日のホルン

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雨が降り始めた。 教室の窓をカタツムリがゆっくりと登っている。 俺は数学の問題を解いているふりをしながらカタツムリをじっと見つめた。 カタツムリは登り方を忘れたかのように立ち止まっている。 俺はシャーペンを手から離すと窓をそっと開けた。 先生は気づいてないみたいだ。 カタツムリの殻をちょんちょん、とつついた。 カタツムリは思い出したように登り始めた。 「遠田?何をしてるんだ」 「なぁんでもないでーす」 俺は窓に出ていた手をそっと引っ込めるとシャーペンを持った。 先生は開きっぱなしの窓に気づいたのか気づいてないのか、そのまま 「至らんことはするなよ」 と言った。 俺ははーい、と返事をすると机の上の問題用紙とにらめっこをする。 たかが小テストとはいえ結構難しい。 一応答えを入れるとちょうどチャイムが鳴った。 俺は前の人に問題用紙を渡すと窓を見た。 カタツムリはもうどこかへ進んだのか、見当たらなかった。 落ちてないといいけどな、そんなことを思う。 さあ、今は6時間目。次は部活だ。 プーーーーー。 まっすぐした音が俺の耳を直撃する。 俺はそんな先輩の音に驚きながらも楽器を持った。 ベルに手を差し込む。 「あ、遠田くん。そういえばもうちょっとで新入生歓迎会だね」 俺はマウスピースから口を離すと「そうですね」と言った。 先輩は俺にもっと違う何かを喋ってほしかったのかすこし寂しそうな顔だ。 俺と3年の先輩一人しかいないこの練習場所。 先輩は俺から目を背けると、楽器を構えた。 俺もそんな姿を横目に見ながら楽器を構える。 どちらかが始めるか小さな競争をしている練習場所には雨の音しか聞こえない。 プーーーーー。 何も合図していないのに同時になったその音。 先輩は驚いたように俺の方を見るとちょっと嬉しそうに笑った。 「同時だね」 俺はマウスピースから口を離さないようにして頷いた。 ぐるぐるまきの俺の楽器の名前はホルン。 管楽器の中では最も長く、3.5mもある。 あのチューバよりも長いのだ。 そんな長さの管をくるくると巻いて小さくしたのがこの楽器だ。 トランペットやトロンボーンのベルが前を向いているのに対して、ホルンのベルは後ろを向いている。 先生に「ホルンもっと音飛ばして」と言われてもベルは後ろを向いてるわ、ベルには手を突っ込んでるわ、で音を飛ばすということが難しそうな楽器だ。 見た目はカタツムリ。 新入生などに勧誘するとき「カタツムリだよ〜〜」がお馴染み。 俺はさっき教室にいたカタツムリのことを思い出す。 実際に見てみるとそんなに似てないような……。 プーーーーーー。 きれいな音が教室中に響いた。 もちろん先輩の音。 俺はそんな先輩の音に勝てるわけもなく、楽器を吹くのをやめた。 俺は先輩が吹き終わるのを待つためにあたりを少し見渡す。 すると窓の向こうに小さな物体が見えた。 なにか張り付いている? それはゆっくりと進んでいるようにも見えた。 と、先輩が吹き終わったので俺はマウスピースに口をつけ息を吹き込んだ。 ぷ~……。 先輩のとは比べ物にならないぐらいの濁った音だ。 息もあんまり続かない。 先輩は俺の横顔をじっと見つめている。 先輩の唇が動いた。 「あのね、遠田くん。私新入生歓迎会の前に引っ越すんだ」 俺はホルンを吹く体制のまま固まってしまった。 そのままメガネザルのように首だけを先輩の方へ向ける。 「楽器の紹介、頼んだよ」 先輩の長いまつ毛をいくつかの水が通り抜けると、それはホルンに落ちた。 「え……」 なにか気の利いたことを言おうとして、それでも喉からはその言葉しか出てこなかった。 俺は目が熱くなるのを感じた。 「遠田くん、困ったときはカタツムリ、だから。頑張ってね」 先輩は長いまつ毛を閉じると笑った。 その笑顔は明らかに無理している人の笑顔だ。 俺は「……わかりました」と小さな声でつぶやくと、うつむいた。 しばらく雨の音だけが練習場所を覆った。 ポツ、ポツ…。 俺は吹かなくなって冷たくなったホルンの胴体をそっと撫でる。 すると急に先輩が立ち上がって叫んだ。 「あっ!遠田くんあれみてあれ」 俺は先輩の指さした方を見る。その瞬間にいくつかの水滴が頬にたれた。 先輩はホルンを椅子においてそのまま窓まで走っていく。 「遠田くんっ!カタツムリだよっ。ほらみてみて」 俺はそうですね、と言うとはしゃいでいる先輩の笑顔を見た。 さっきの無理している笑顔ではない。 「先輩」 俺は先輩の顔を見る。先輩は不思議そうに俺と目を合わせた。 「絶対楽器紹介がんばりますから!」 先輩は嬉しそうに俺の方へ飛んできた。そして座ったままの俺を覗き込む。 「遠田くんにできるかなぁ?」 「大丈夫です。困ったときはカタツムリ、ですよね」 俺は口角を上げる。でも無理にじゃなくて何故か自然にだ。 先輩は白い歯を見せた。 「頑張ってね」 窓に張り付いていたカタツムリはこの二人のやり取りが終わると、そのままゆっくりと進んでいった。 先輩の涙がたれたホルンのように濡れた胴体で。 完
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