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「おい、おきろ!、おきろ」
暗闇の中、肩を強めの小さな爪が揺する。 声は幼く小さく、されど気迫のこもった声だった。
「……今何時だと、」
怯えた声で僕は呟く。
ぼやけてくすんだ視界を掻き分けて、少女の緑色の瞳がコチラを覗いてきている。
「02:15」
「時間は訊いてないよ、」
「なんだ。きいたじゃないか」
「……お休み」
「まて、ねるな。本当にねるぞ」
もう一度肩を強く揺すられる。
ボーボーになったヒゲごと、無愛想な首が無遠慮にぐらぐらと揺すられる。
「どおしたんだ」
「足音たちだ。ちかい」
「マジか――ッ!」
掴まれていた事も忘れて、僕はそのまま跳ね起きた。恐ろしい速度でライトも点けず、慣れた手つきで横でいびきを立てていたアホ面をひっぱたいた。
「ぱぁ?、」
「起きろオリバー。近くを部隊が通る」
「おおガラン?、判子もってねぇか」
"パン" 乾いた音がもう一度響く。
「起床せよクローゼ伍長。緊急事態だ」
「了解いたしました。ラスタフ軍曹殿」
腫れた両頬をそのままに、即座に銃を携える二人。最後に帽子を被った後、ようやく彼女の方を思い出した。
「――それで、どっちだ?」
「りょうほう。」
「おれたちと同じ音は?、」
「いや、まじっている」
「へ、なんで?」
「わからない――だが、よくそろっている」
「よくそろう?、詳しく頼む。母国語で言いから」
「――"互いの部隊に混じった足音がするよ、ソイツらは隠れているわけじゃない。明らかに統率が取れてるね" 」
横の長耳の手からミリミリと音がする。僕は鳴らなかった。リスニングが下手くそ過ぎるおかげで、まだ少し冷静で居られた。
「……この地獄だ。少なくはないだろう」
「それがなんだ」
「落ち着け」
「落ち着け?、ああ、今すぐにでも落ち着かせてやるよ全員。安らかにな!」
「オリバー、」
「 "裏切りものは多いぞ。こんなふうにな" 」
沸石を入れ忘れた脳ミソから飛び出した泡が、彼の左目だけを痙攣させる。
察した少女は即座に自分を指差しあざ笑った。
「――まざっている。そういった。これは引き算だけではない」
「……あぁ、そうだな。すまない」
長耳はそう言って帽子を下ろす。だがと僕らの友情を遮るには、そのボロボロのツバはあまりにも頼りない。6秒掛けて消火はおろか、発射態勢に入った男の表情は、手に取るように予想が付いた。
「……ここからはラスタフ軍曹として話す。良いな。クローゼ伍長」
「……頼むわ」
引っかかった釣り針を抜くような、耐えがたい苦痛にもだえながら。
彼の消え入るような声には、そんな色が籠もっていた。
「――アニータ、今それぞれの前線と、我々の距離を教えてくれ」
「"東200、北西180。塹壕内を行進中" 」
「"それは、前線中?、それとも――"」
「むりするな。はさまれてはいるが。抜けられる。はじにいるから」
「……すまない。ありがとう」
手を合わせて、その後しばらく僕は一人考え込んだ。
次の一手だ。次の一手で間違いなく制止が決まる。確信があった。
焦るな。目を閉じろ。迂回し後ろから合流するか、それとも前線の到達を待つか。
此処で間違えてはいけない。
"頑張ったね" では済まされない場所に居る。いや、済ましてはくれるだろう。神様が、きっと。
「おい寝るなよ、」
「寝てない。練ってるんだ」
「どっちだよ……」
自分の身体が浮かび上がるほどの錯覚を覚えて、ソレすらも通り過ぎるほどの時間。 マイナスに落ち込むほど深く閉じられた瞼と、アザが出来るほど強く締められた腕。
ゆっくりと上を向く。その両方をほどいて。
何もない、薄暗いテントの中、煙に巻いてしまいたくて。吸いもしないタバコが欲しくなった。
「……アニータ。近い方の足跡はどちらが多い?」
「おなじおとだ。おまえたちと」
「ヨシ……準備してくれ。直ぐに出る」
太陽がまだ影もない、東空の雲は形すら解らない。だが二つ返事だった。思考を放棄したワケじゃない。今、追い詰められる前。もっともここから先 24 時間において、今が一番理性的だと、そう確信があったからだ。
しばらくの静寂があって。
やがて、夜に照らされて三匹。塹壕に足跡を付け始めるのだった。
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