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「なんか……おかしくねーか?」
最後方の長耳は唐突に呟く。
暗がりの塹壕。新月を見送ったばかりの暗空には、細い切れ込みだけが走り、そこから光が覗いている。
「どうした?」
「敵がこんだけ近づいて。なんか変だぜ。静かすぎる」
「……足音はしているぞ、」
「そうか?、そうなのか……いや。でもそうじゃなくて……」
要領を得ない言葉ばかりが、ポロポロと長耳の口からこぼれ落ちていく。本人も確証があるわけではないのだろう。
だがこの極限状態。バカにはできない。
「……どうおかしい? ゆっくりでいい」
「……いや、なんつーか。殺気がヘン」
「ヘン?、"ない" じゃなくて?」
「あるよ。ある。それは間違いない。ただいつものソレと向きが違うっていうか――」
「向き?……戦意がないって事か?」
「そう、ソレだ! とても明日の朝、此処が戦場になるとは思えない」
戦う気配がしない。妙な言葉だ。いつ始まるか解らないから前線じゃないのか。
とても塹壕を掘り進めていたら敵の塹壕とつながったことのある男の口から出る言葉とは思えない。
「弱気になってる?」
「んなわけねーや今更、ただチョットあれだ。気持ち悪さがあるね。まちがいない」
僅かに覗く月下を借りて、コチラを見つめて居るであろう男の瞳をのぞき込む。
彫刻のような彫りの深い顔にはめられた、一対のサファイア。コチラをずんと、暗闇の中で深く刺す。
「……解った。」
「おう?、」
「少し休もう。接触は空が明るくなってからの方が良い」
「そうかそうか。いやわりいな」
もやが取れたように、彼は少しケラケラと笑った。
「君もいいかい? アニータ……アニータ?」
手を腰の高さでかざせど、空を切るばかり。違和感が呼ぶ。彼女の名を二回呼ぶ。
再び月明かりをたぐり探る。するとどうして、彼女はその大きな羽を丸め、うずくまってしまっていた。
「どうしたんだ?」
「腹でもいてーかよ?」
「……違う。速すぎる」
彼女はコチラに応えない。ぼそぼそとうわごとのように呟くばかりだ。
「速すぎる?、とは?」
「向かう?、どこへ……まさか、」
「アニータ?、少しはコチラの話を――ッ!」
思わず肩に手を当てたのと同時に、彼女は決起迫る表情で立ち上がった。
「あ、アニータ?」
突然の成長に腰を打ちながら、僕の怯えた目が彼女を見つめた。
「 もどるぞ! テントへ!! 今すぐにだ!! 」
意味が分からなかった。混乱一色に包まれた僕らは、互いの顔を見直した。モチロン、そこら中にこびり付いていた。
けれど彼女の声にも、顔にも、ドコにもソレがなかった。
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