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――何が、何が起きている?
私は徐々に紅くなり出した己の太腿をなでながら、ただ瞬きを繰り返すことしか出来なかった。
「が、ガラン……ッ!」
「……アニータ」
大分遠くで聞こえた気がする己の名をかみしめ、彼女の名を呼ぶ。
笑顔、笑顔だぞガラン・ラスタフ。自分が日頃 どう言われているか知っているだろう。怖がらせちゃいけない。
幸いなことに合っていた目線をそのままに、僕は血の付いてない指を探して、彼女の涙を拭った後、出来るだけの笑顔を向けた。
最後のチャンスだと想ったんだ。
――僕が、まだ。ガラン・ラスタフとしてキミに笑顔を向けられる。
最後のチャンスだと、そう思ったんだ。
少し怯えている彼女をへし折らないよう、最新の注意を払って。いよいよ虎そのものと変わらなくなってきた両手で抱きしめる。
巡る血管と、ふわふわとした羽毛に、命を感じる。
彼女は少し怖がったのか翼を空に立てたままジッとしていたが、やがて優しくコチラを一度抱きしめてくれた。
「ありがとう……もう、だいじょうぶだ」
サッパリとした表情で、そう言って。手を離した僕の前。彼女は強く打ち震え、唇をかみしめていて。
だがやがて、何か飲み込むように、強く、強く深呼吸した。
――笑顔だった。
再びコチラを向いた彼女の顔は、涙に濡れて、その中でも確かに笑顔だった。
そしてその幼く可憐な唇で、目の前の汚らしい土と血にまみれた頬に一度だけキスをした。
何も言えない僕をそのまま、もう一度 僕の方を向いて笑った。
「……私こそ、しあわせをありがとう」
ソレを訊いた途端。手は再び離れた。力が抜けて、だらんとして、僕はそのまま倒れ込んだ。
満足によって脳が意識を棄てたのか。そうに違いない。そうに、そうに違いないんだと。
想いたかった。しかし、自分の懐に深く深くめり込んでいたソレを、僕はどうしても意識から捨て去ることが出来なかった。
「アニータ、あ、……」
ソレは彼女の翼だった。勢いよくツルハシのように、私の腹にめがけて打ち付けたのだ。
吐き気はない。吐けるほど食えてない。痛みもない。泣き叫べるほど健康じゃない。
カラの口。言いたいことも言い出せず、ただ栄養不足の口内炎から血が垂れる。
うめき、よろめき、そのまま僕はヒザを地面につけた。魔法は解け、只の大男にもどって、そのまま地面に倒れ伏した。
「てm――、ッおい!」
友人の声。怒りなどみじんもない。只ひとえに怯えていた。うろたえていた。目の前の惨状を、一噛み一噛み、吐き出しては口に含みを繰り返していた。
「ど、どうして……?」
問いかける。答えなんて期待しちゃ居なかった。ただ、その顔がまだキミで、アニータという名の少女であることを確かめたくて。
「……いたいんだ。」
「……痛い?」
「……いたいのさ。少女で」
「なら、どうして……?」
「――少女でいたいのさ、君たちの記憶でくらい。最後まで。少女で」
震えながら放たれた強い、強い彼女の告白に、僕はもう何も言えなかった。
参った。参った。男の袖に滲むのは血と汗と泥でなくてはいけないというのに。
薄れ征く視界の中。彼女は不意に、黒く歪な笛を取り出している。
同じくうずくまっていた女が、何か怯えた顔でソレを見て叫んでいる。
なんだい。ソレはなんだい。どうして僕らには、教えてくれなかったんだい。
声も無きその疑問は、誰にも届きゃしないから。
薄れ征く視界の中。気丈に振る舞う彼女の、頬を伝う真っ直ぐの涙、必死にセメントで覆った笑顔だけ。
いつまでもこびりついていった。
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