⑧壁の向こう側

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 その言葉を聞いた途端、思わず立ち上がってしまった。いや、立ててない。立ててないんだけど、確かに意識は立ち上がったんだ。  完全に枠の外にあったはずの、彼の瞳がすっとこちらを見つめて来たと思ったら、突然?、初めて?、その名前を。ホントに会ったとき一回、言っただけの。もうずっと長い間呼ばれた覚えのない名前を呼ばれた。呼ばれてしまったから。 「あ、……、あ。……」  どうしよう。声が出ない。あれ、ちがう。違うんだよ。違うんだって! そんな、思春期の子供じゃあるまいしさ?、ただなんていうか、そう。この人はこういう時、感謝よりも謝罪で来ると思ったんだ。それこそ、『巻き込んですまない~~』的な。それが、あんなまっすぐ投げてくると思わなくて、あぁどうしよう。いや、ホントにどうしようっていうんだ。  豪快に空振って尻餅をついたまま、バッターボックスから起き上がれない私。その顔は自分でも恥ずかしくなるほど、鏡を見れば割ってしまいたいほどにまで赤面していた。 「き、気にしないでよ! どーせサ、私もコレついてこなきゃ飢え死に?、それか窓なし人権なし手錠付きで独り暮らしするトコだったんだし。ねぇ、ガ、か、えぇ~~と、……カロン君?」  顔ごと話題を逸らして余裕ぶる。駄目だ。情けないケド今これ以上、この人の顔を見れない。というか見せれない。それに最悪だ。自分でもできると思って突っ走ったはいいものの、彼の名前が出てこない。思わずなんかテキトーに聞いたことある名前を出してしまった。  覗くようにチラッとだけ彼の顔を見る。その目はひどくやさしく、年甲斐もなくキョどるコチラをからかうつもりが一ミリもない純真な、慈悲すら感じさせる顔をしていた。  止めてよ!!止めろ!! なんか私だけ薄情なヤツだって感じになるじゃんか!いや、そうなんだけどさ! 「ハハ、世紀を代表する偉人になった覚えはないよ。僕はガラン、ガラン・ラスタフだ。君の好きなほうで呼んでくれ」 「ご、ゴメン……が、ら、ガラン君」 「ありがとう、気にするな」  苦し紛れのくんづけに、満面の笑みで、少しくだけた若者らしい声で。まさしく無邪気なその顔にどこかバカバカしくなって、私はようやく前を向いた。 「……どうした?」  彼は首をかしげる。前を向いた私が、突然何か気付いたのか、気付こうとしてるのか、彼の顔を探るようにじっと見つめ続けたからだ。  自分でも不思議だったんだ。ようやく落ち着いて呑み込んだはずの感情の中に、ソレはなぜかほんの少し、されど確実に、一滴だけ垂らしたバニラエッセンスのように口の中、ほのかに残り続けてしまったのだから。  若々しく、堅苦しさの取れた彼とかわすファーストネームでの呼び合いとその笑顔。その笑顔に、  何故か ”なつかしさ” が滲んだから。
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