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「さて。お忙しい中皆々様にお集まり頂いたわけですが」
俺はそう言って咳払いをすると、リビングを見渡した。
輸送あるあるとも言える例年通りの修羅場を乗り越え、一段落して年末年始休暇の初日、一応五人分の鍋も用意して。クリスマスも鍋だったしなーと思いつつ、人数分を色々と拵えるのが面倒になった為、一工夫だけ加え鍋にした。
「いや全然。漸く健さんの手料理食えるし!」
奥山がニコニコと鍋を覗く。「やっば何これ! カレー鍋?! いやでもカレーだけじゃなさそうだし、美味そー!」
「それより優、話したい事あるんだろ? 会社の談話室じゃダメだったのか?」
藤倉が割り箸をパチリと割りながら言うと、矢作は畏まって正座になった。
「いや。その・・・藤倉さんたちだけに話したかったので」
「ま・・・何処で誰が聞いてるか解らんからな。で?」
藤倉に促されると、矢作は俺の顔を見上げる。俺がぽん、とその背中を叩くと、矢作は一度深呼吸をしてから口を開いた。
自分が戸籍上では女である事。DSDという身体で生を受けた事。現在は性自認が男である事。だが、遅れて訪れた性徴期により、二年ほど前から身体の変化や、性自認にふらつきが生じている事。故に、今後自分がどう変わっていくかが自分でも解らず、それによっては、もしかしたら迷惑を掛けるかも知れない、と。
過去について多くは触れなかったが、この会社に入社した経緯など。
ゆっくりと、それで居ながら確りと伝えていった。
矢作が語り終えた後、くつくつと鍋の煮える音だけがリビングに響く。
その静まった空気を最初に割ったのは、藤倉だった。
藤倉はす、と座布団を滑らせて炬燵兼テーブルから離れると、胡坐を掻いている膝に両手を置き、すまん、と、その頭を深く下げた。
「え、ちょ?」
いきなりの事で矢作が慌てて居ると、藤倉は顔を上げる。
「申し訳ない。詳細までは知らなかったが、お前が入社した当時に、お前が女だという事は社長から直接報されていた。その上で、男として扱ってくれと」
え、マジ? 俺が目を円くしていると、矢作もまた同じように目を円くしていて。
「え、もしかして役員さん、も?」
「いや、俺だけだ」
きっぱりと否定する藤倉の言葉に、矢作はほ、と安堵の息を漏らした。
だがちょっと待て。
という事は、だ。藤倉は五年も前から優の性別を知っており、知っている上で、俺に矢作を預けたという事か?
「ちょい待ち、ちょい待ち。よーちん? お前、知ってて俺に優を預けたってか? 幾ら適任だからっつっても、配慮っつーも―――」
「お前の事も心配だったからだろうが」
俺の言葉を裂くように、藤倉は言った。
一体、何がどうなっているというのか。
俺が言葉に詰まっていると、土井が成る程、と苦笑して言う。
「俺らが知っている健さんって、現在の健さんだから解らないっすけど、藤倉さんからしてみれば、そうなるんでしょうね」
土井がそう言うと、奥山が覗き込むように全員の顔を見比べる。
「・・・なあ、俺めっちゃ置き去りなんだけど。訊いてもいいっすよね? 此処まで来たら」
奥山がそう言うと、藤倉がいいよな、と俺に視線で合図を送る。
・・・成る程、そういう事か。
じゃあしょーがないわな。俺は一度だけ息を吐くと、どーぞ、と藤倉に手を差し出した。
どうやら話は俺が奈緒と別れ、漸く前向きになってきた頃まで遡るらしい。
俺が取引先とデータ絡みで電話をしていた時に、たまたま通り掛かった藤倉が見たもの。それは、喋りながらメモ用紙に何か棒人間のような物を描いては黒く塗り潰し、を繰り返していたものだった。
俺自身は、というと、とんと記憶に無い。落書きメモなんて見返しもせず直ぐ丸めて捨てるので、尚更憶えてなんぞ居ない。
漸く前に進められるようになったと安堵していた所に、そんな姿を見てしまい、どうしたものかと思案したらしい。そんな思案が年単位に及ぶ等、部長職は暇なんだな、と俺は苦笑した。
やがて訳有り矢作が入社し、奥山と土井が入社し、俺ともつるむようになって。その辺から俺の雰囲気が変わってきたが、それでも絵を黒く塗り潰す癖は治っていなかった。
そんな日々を過ごす内、何か事情を抱え込んでいそうな矢作と、空洞を擁いている俺が、全く似ていないのにも関わらず、ある種の同類だと気付いた。
マイナスとマイナスを掛けるとプラスになるように、二人が家族的な関係性を築く事が出来れば、もしかすると二人にとって良い化学反応が起こるかも知れない、と。
さてどうしたものかと試行錯誤していると、矢作の住所不定が発覚した。
「勿論、第一の目的は、優の身の安全だがな。配慮も何も、もし優が女だと知っても、お前なら問題無いと判断したし」
仇となった部分も有るがな、と、藤倉は溜息混じりに反省の言葉を零す。
ふと、奥山が、そういえば、と。
「思い出した。健さんの落書き、俺も何回か見た事有る。電話の時だけだけど、会話をメモしてるのかなーと思ったら、何か解らないけど枠を描いては中を塗り潰してるの。でも、ここ最近は全然。ペンを持ってくるくる回すだけしか見てないな」
それに、と、土井と顔を見合わせ、「優もすげー笑うようになった。前はふわふわニコニコしてるだけだったけど、全然違う。毎日が楽しいんだろうなって、亘と良かったなあって話してたんだ」
「そっか・・・」
矢作は苦笑すると、ありがとう、と頭を下げる。そして下げたまま、顔を上げられないでいた。
誰かに心配され、励まされ、笑顔を向けられて。信じては離れられ、蔑まされてを繰り返してきた矢作にとって、どれ程嬉しい事だろう。
再び沈黙が部屋を包む。今度は奥山がその沈黙を割いた。
「んな事よりさ、鍋食わね?」
え? と、矢作は顔を上げ、きょとんとした表情で奥山を見る。
「そうだな、野菜がくたくたになり過ぎる」
そう言って藤倉が早速箸を鍋に突っ込んで。
「頂き! て、美味っ。俺カレー鍋、初めてだわ」
土井が熱っと言いながら頬張って。
「・・・俺の事、何も思わないんすか?」
矢作が挙動不審になりながら各々を見回ると、まあ、正直めっちゃ驚いたけど、と奥山が言う。
「驚いただけ。そんなんで離れるとか、友辞めとか? ぜってーヤダわ」
「確かにそういうのを偏見で見る奴は居るだろうけどさ。健さんが前に言ったように、『俺は俺』でいんじゃね?」
土井がそう続けると、矢作の眼にじわりと涙が浮び始める。
「事情は全部把握した。ま、来年も無事故無違反目指して頑張れ」
藤倉がそう言って矢作に笑顔を向けると、矢作は零れそうな涙を抑えるように、ゴシゴシとトレーナーの袖で顔を拭った。
「あ! そうだ! 俺も重大発表していいすか?」
奥山が勢い良く挙手をする。「俺、来年の夏、パパになります!!」
「え。マジで?」
俺が驚いて訊くと、奥山はニカーっと笑う。
「マジっす! で、正月に入籍します!」
「そりゃ目出度いな。式は挙げるのか?」
「はい。寒いけど、二月に。彼女のお祖母ちゃんが元気な内の方がいいかもって話になって。親族だけの式と披露宴になるかもなので、皆呼べなくなるかも。すげー申し訳ないんすけど」
そう言って奥山が苦笑すると、そんなの気にするな、と藤倉が笑う。
「そうかー連太郎がパパですかー。どっちが子供か解らん状態になるんだろーねえ」
俺が茶化して言うと、失敬な! と箸を振り回す。
「いや、マジで加奈ちゃん大変だぞ。絶対」
そんな遣り取りが飛び交う中、ふと矢作を見ると、呆気に取られた、拍子抜けしたような表情でいて。
「良かったな」
矢作にだけ聞こえるように小さく声を掛けると、矢作は俺の顔を見上げて、嬉しそうに笑ったのだった。
賑やかなリビングを抜けて外の空気を吸いにベランダに出ると、そこには土井が居た。煙草を吸うならベランダに行っていいぞ、と促していたからだ。
「お言葉に甘えて吸わせて貰ってます。て、要ります?」
そう言って煙草を俺に向けてくる。
「いいわ、辞めとく」
「でしょうね」
ベランダの縁に腕を乗せて夜景を眺めていると、土井はくつくつと笑う。
「そういやお前、優の事、驚いてる様子無かったけど。気付いてたのか?」
「いえ、全然。びっくりしたけど納得も出来たから、相殺されただけです」
「成る程ね」
こいつはこいつで面白い奴だ、と俺が苦笑すると、土井はふと視線を煙草の煙に向けた。
「キモい事、言っていいすか?」
「俺以上にキモい事言える自信が有るならいいぞ?」
「なんすかそれ。・・・健さん、めっちゃくちゃ本気なんすね」
「俺は何時いかなる時も全力投球だが?」
「じゃなくて、優の事。俺に『キモい?』て訊いてきたの、これかーって」
「・・・もしかして駄々漏れ?」
そろりと上目遣いに窺う様に顔を見ると、土井はくっそ、キモさで負けた、と、声を上げて笑う。
「連太郎は鈍感だから気付いて無い臭いけど、どうでしょうね。でも、ぼちぼち言ってもいんじゃないすか? 俺らだけには。俺らは、何も変わらないんで」
「知ってるわ、それぐらい。タイミング無かっただけで」
「駄々漏れも何も、大して隠す気無いでしょ。そっちから言ってくれるの待ってたんすけどねえ」
「そりゃどうも。お待たせ致しまして」
「いえいえ。丁度良いタイミングじゃないすか?」
「だな。連太郎の重大発表なんぞ霞ませたる」
どんな張り合いっすか、と土井はケラケラと笑うと、戻りますか、と促してきた。
部屋に戻るなり、俺は矢作を背後から襲うように抱き締める。
仰天している矢作を他所に、まあお前ら、今後は俺がこいつに張り付いているから安心しろ、と公言した。
その瞬間、藤倉は箸を落とし、奥山は目玉を零しそうな勢いで驚いたのだった。
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