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こうして俺達は二人して病院へと向かった。
俺は以前から取れと言われていた指定有給扱いにした。矢作は有給として申請したのだが、正直、藤倉達に矢作のDSDの件を話しておいて良かったと思った。事情を解っているだけに、矢作の申請事由を空白で受け取ってくれたからだ。本来は検査を伴う通院の場合、疾患名を記載しなければならない上に総務部長を通さないといけないのだが、藤倉がこそりと社長に報告したようで。藤倉様々だ。
十数年に一度と言われる大寒波の所為か、珍しく雪がぱらついている。大雪になるのが週末だという天気予報を見て、今日でなくて良かったと安堵した。積雪なんてあれば、雪に慣れていない本社の運輸部は大打撃だからだ。有給返上、出勤になっていただろう。
病院に到着して受付を済ませると、二人並んで待ち受けの椅子に座る。
心なしか矢作の面持ちは神妙で、緊張もしているのか肩が上がり気味だ。医者にどう言われるか不安なのだろう。
やがて名前を呼ばれ診察室に入っていったのだが、直後、看護士に呼ばれて俺も部屋に入るよう促された。
「失礼します」
と言ってスライドドアを引くと、不安そうな表情の矢作が目に飛び込んで来た。
さて、相棒です、か、はたまた会社の上司ですとでも言った方が良いのか悩んでいると、医者は朗らかな笑顔でどうぞ、とパイプ椅子に座るよう示してくる。年配の医師かと思えば、俺と同年代らしい風貌の、綺麗な女医さんだった。
「初めまして、矢作さんのパートナーの方ですよね。彼から同伴してくれたと聞いて、是非一緒にお話を、と思いまして」
そうなんですね、と俺が返すと、矢作がすみません、と小声で言う。
「? 何が?」
「いえ、パートナーだって言ったから」
「正直で宜しい。お陰で自己紹介せずに済んだわ」
ね、と女医に言うと、そうですよ、と矢作に笑顔を向けた。
「今回も検査という事で。結果はまた後日となりますが、先ずはお話をしてから検査に入りましょう」
一通りDSDという疾患についての説明が成される。以前色々調べた内容と余り違いは無いようだが、理解出来ていない部分が補填されたので有り難かった。
「DSDは一人ひとり症状が違う、と言っても過言では有りません。矢作さんと身体的疾患が近しい人も居ますが、染色体通りに性自認を持ち、性徴期も通常通り迎えている、所謂一般的な男性、女性として生活している方も多く居ます。中には性徴期に入るまでは性自認が男性だったり女性だったり、コロコロ変わる人も居ますし、性徴期に入って自分の身体に嫌悪を抱く人も居ます。矢張りそういった方々は、矢作さんのように家族に理解されなかったり、悩み多き人生を歩いている方が多いです。でも矢作さんの場合現段階で既にパートナーがいらっしゃるので、それは非常に幸運な事と認識しておいて下さいね」
ここからは医学的な見解となりますが、女医は続ける。
「男性ホルモンと呼ばれるテストステロンは、微量ではありますが、通常の女性も分泌されています。前にも説明させて頂いたかと思いますが、矢作さんの体内に有る精巣に男性としての機能を果たす動きは一切無く、体内に取り残されているだけと言った方が、表現としては正しくなります。特に矢作さんは性徴期がかなり遅れた事、エストロゲンの分泌もほぼ無い事もありまして・・・そうですね、性徴期前の身体を維持していた、と考えるのが近いでしょう」
確かに、小学生位まで、女子の方が背が高かったり、筋力にも大きな差が無かったりするな、と己が小学生時代の頃を思い出す。
今更ながら、矢作の声は声変わり前の少年に近いな、と感じる。その頃合いの少年少女は、皆似た様なキーだ。奥山のキーが割りと高いので気にしていなかったが。
「ええと・・・初潮が二十二歳、二回目の生理が先々月との事ですので、確実な事は言えませんが、エストロゲンの分泌量は、増えていくと思われます。期間が開いたとしても、生理が来るという事はそういう事です」
その言葉を聞き、矢作はえ、と、小さく声を上げる。
「矢作さんは性自認が現在は男性との事ですので、不本意かも知れませんけどね。ただ、勘違いされてはいけませんよ? 増えているというだけで、基準値には到底達していません。前回検査時の分泌量も6pg/mlと、閉経後の女性よりも遥かに少ない数値ですので、今後も通常の女性と同等になる、とも考え難い状態です」
「そうなんですね」
「はい。後、体内に残されている精巣についてですが、実際のサイズ、お伝えしましたが、覚えていますか?」
そう聞かれ、矢作はフルフルと首を横に振る。
「サイズ的には長径約一センチ程で成人男性平均の三分の一、重量も同様に三分の一程です。その為、腫瘍化する可能性は今の所無いと判断します。言葉は悪いですが盲腸と同じで、感染症を起こし虫垂炎になるかどうかなんて、誰にも予想は付きません」
その上で、と女医は更に続ける。「今後、不順ではあるにしても生理が来る可能性は有ります。それにより、乳房の発育なども有るかも知れませんが、それもまた未知数。何もかもが可能性の状況ですが・・・矢作さんは、男性ホルモンの治療や、性別適合手術を望まれすか?」
そう訊かれ、矢作はいいえ、と、はっきりと答えた。
「俺は俺のままで居たいと思ってます。俺の性自認が変わるとか、身体がより女性的になったとか、そういった変化が在ったとしても、生命に関わるような病気にならない限りは」
「解りました。じゃあ、矢作さんの身体的負担にならない、且つ、心の均衡が取れるような方法を、パートナーさんとも一緒に模索していきましょう。その為にも定期的に検査し、身体の構造や変化に確り向き合っていきましょう」
そう言って女医は朗らかな笑顔を矢作に向け、その手を差し出した。矢作はありがとうございます、と、その手を確りと掴み、握手した。
「それとね、矢作さん。私の兄も性自認が女性です」
「え」
矢作と俺が眼を円くすると、女医はくつりと笑う。「姉は現在、海外でモデルをしています。ホルモン治療を続けているので、今では女性にしか見えない外見ですが、それでも自分の身体にメスを入れる事が受け入れられず、性別適合手術は今後も受けないと言っています。そんな彼女の性指向は男性ではなく女性。心は女、恋愛対象も女性なので、本人曰く、自分はレズビアンだ、と」
ややこしいでしょう? と女医は苦笑する。「DSDみたいに遺伝子レベルで左右される疾患とは違いますが、まあ・・・そんな人間も居ますので、マイノリティである事を決して悲観しないでください。ましてやあなたは、心強いパートナーも居るのですから、胸を張って生きていきましょう」
矢作は安堵の表情を浮かべ、はっきり、はい、と返事をした。
矢作が検査をしている間、俺は待合室のソファに座り、ぼんやりと外を眺めた。
待合室の窓は一面がガラス張りで、外が良く見える。僅かに首を上に向ければ、空まで見えた。
真冬の空は澄んでいて気持ちが良いものだが、如何せん本日は雪。曇天から降り落ちてくる大粒の雪を見て、積もる事は無さそうだなと、ぼんやりと思う。
万年雪の様に残り続け凝固していたかの様な、心の凝りが解かれた今、そしてこれから。矢作は自信を持って矢作優として生きていける。ただそれだけで、どれだけ己自身から赦された気持ちになるだろう。
俺もまた、そんな矢作に救われた。
虚空の闇に残されていた宝箱。その鍵の開け方を教えてくれたのは、他の誰でもない矢作だからだ。
大切にしたい、なんて軽いもんじゃあない。女医さん、俺の方こそ心強いパートナーに出逢えたんですよ。
巡り合わせには意味が在る。
何時か矢作に語った自分の言葉を、深く、重く実感した半日だった。
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