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Ⅵ
三月に入り、心機一転といった状態で業務をすべく事前準備が始まる。大幅な人事異動も有り、前年度までと比べあちこちが忙しい状態で。
いや、ちょっと待て。うち、三月末決算だよね? と気付いた時には既に遅く、今度は事務関係がてんやわんやになってしまった。しかも件の経理部長が結局とんずらこきやがり、奈良からチェンジで配属されたばかりの経理部長は引継ぎ無しの状態で只管パニック。当然ながら奈良も部長職不在という状態で決算資料を作成しなければならないので、大騒ぎだった。
俺も俺で藤倉から引継ぎ業務がままならない状態だった。こういう時に限ってシステムはバグるし、プリンタは逝かれるし、で、日々残業。夕飯に関しては、昔取った杵柄で土日に大量のストックを作り何とか凌いでいるが、ここの所、矢作とまともに顔を合わせて居ない状況だ。
病院帰りにプロポーズをしたその夜、矢作とは沢山話し合った。
勿論、俺が傍に居たいのだという事もきちんと伝えた。その上で、矢作はもう少し待って欲しい、と。
「めちゃくちゃ嬉しいんです。こんなに幸せで、俺もしかして近い内に死ぬんじゃないの? て思う位」
いやいやそんなあっさり死なないで? 死んだら元も子も無いじゃないの。
「籍入れるだけで、実質上、関係性も生活も、何も変わらないぞ?」
「解ってます。その・・・せ、籍を入れるのは全然、そこまで想って貰えているんだって、もうめちゃくちゃ嬉しいんです。だからこそ、もう少し。もう少しで、俺の中で答えが見付かりそうなんで」
俺はそうか、と言って、矢作の頭をわしゃわしゃと撫でた。
矢作の中で、明確にしたい何かが有るのだろう。ならば、今は何なのか訊かない方が良い。
「解った。何年でも待ってやるから、時間掛けてしっかり見据えろ」
「はい。でも、年単位は言い過ぎです。近々で」
「気負わなくて良いから。お前のペースでな」
そう言うと、矢作は深く頭を下げてから、そろりと手を延ばして俺の手を握り締めた。
そんな遣り取りをして一週間過ぎた頃から社内に不穏な空気が漂い始め、決算という現実に直面した、という訳である。
「お? 健さん? まだ居たんすか」
不意に背後から声を掛けられて振り返ると、土井が居た。時計を見上げると二十二時を回っている。こりゃ昨夜と同じ二十三時ペースだな、と溜息を吐いた。
「まだも何も、これ修正しないと帰れませんわ・・・」
べちゃっとデスクに倒れ込むと、土井はマジすかーと苦笑する。
「亘も居残り組?」
「俺? 俺、今日から遅番なんすよ。夜勤のアルバイト君、怪我しちゃって。明日から一週間お休み」
「あーそーいや何か騒いでたねえ。ホームの段差から落ちて捻挫って?」
「そうそうそれ。来週には復帰するから、一週間だけですけど」
となると、今は昼休憩って奴か。
「電気点いてるから誰が居るのかなーと思ったら。ここの所ずっと遅いみたいっすね」
奥山にやらせたらいいのにと笑うので、モニタを見せてやる。真っ黒な画面にうざい程コードが並んでいるのを見て、無理っすね、と苦笑した。
「参っちゃうわよねーほんと。引継ぎも全然だし」
「柳さんは? 柳さんならそれ、出来るでしょ」
「出来るけど、嫁さんが体調崩して入院中。残業なんて鬼みたいな事させられんわ」
「踏んだり蹴ったりっすね」
「そーよ。晩飯も家で全然食えてねーし」
切ない、と零すと、土井はあー、と頷く。
「優と一緒に飯食えなくて寂しいんすねー」
「おうよ。絶賛癒し不足よ俺」
「夜無理なら朝飯は? あいつ便変わって、朝少しゆっくりになったでしょ」
確かに朝四時から朝六時起きになったので、優はゆっくりにはなった。が、俺が起きられない。この二週間近く、会社を出るのがほぼ二十三時。帰宅すると、矢作はとっくに就寝している時間だ。
家に着いたらほんの少し扉を開けて、起こさない様に寝顔を見る。それから風呂入ってビールを空けるだけで、日付がさくっと回っているのだ。そんな状態で朝の六時になんぞ、自力で起きれる筈も無い。
「それじゃ全然っすねえ。便が変わったから、俺も最近優とあんまり喋れて無いっすけど、一昨日だったかな、ちょっとだけ話して。確かに元気無さそうでしたわ」
はい、これあげます、とコンビニの袋から缶コーヒーを渡される。電気が点いているのを見て、二本買ってきたのだとか。俺はありがとさんと素直に受け取り、プルトップを引いて一口飲む。所詮缶コーヒー、されどコーヒー。疲れた身体に染み渡る。
そんな俺を横目に、土井は弁当を奥山のデスクに拡げると、頂きます、と頬張り始めた。
「そうだよなあ・・・この前の土日、休出になっちまったから、気遣われてるもんな。出前なんてどんだけぶりに食ったかマジで」
「毎晩自炊って前言ってましたもんね。そっか、そんな状態だとご無沙汰になっちまいますね。そりゃ、あいつも寂しいわな」
俺は土井のご無沙汰、という言葉に思わず飲みかけのコーヒーを噴き出した。
「お前、何さらっと夜の営み事情ぶっ込んでるのよ」
「いい歳こいて何言ってるんすか。愛情表現のツールの一つでしょ。俺の彼女も、転勤始まったばっかん時、めっちゃ寂しがってましたよ。俺もクソ寂しかったし」
ま、一年もしたら慣れたけど、と土井は笑う。
「そらな、一般的にはそうかもだけどな? でもなあ―――やっぱ、迂闊な事出来ないわ、流石に」
そこで土井はあ、と気付く。
「そっか、そういえばそうか。すっかり忘れてましたわ」
土井は、健さん紳士ですねえとくつくつと笑う。
「そりゃー俺だって切ないさ。部屋離れてるから、理性を保れてるだけで、紳士とは程遠いぞ?」
何せ前科有るからなあ。
車内とはいえ、公道のど真ん中でいきなりキスしたりとか。
「いっそ、一緒に寝ちゃえばいんすよ」
土井は弁当に入っている鮭を頬張りながらしれっと言う。「だって、あいつ、健さんの事めっちゃ好きじゃないすか。見てりゃ解るっすよ。だったら、頭ん中であーでもないこーでもない考えるより、感情に任せたら良いのにって思うんすよね」
まあ、あんな半生送ってたり内面と外面が一致しないと、なかなか難しいんでしょうけど、と。
「か、健さんがなんちゃって紳士を辞めるかですね」
「俺に夜這いしろと?」
「それも有り。まあでも、切ない時間も愛を育む時間ってのも有りますしね。何せ試練だと思って頑張ってください」
土井はケラケラと笑ったかと思うと最後の一口を放り込み、ごっそさん! と手を合わせた。
「ま、ご心配、どーも」
「正直あんま心配してないっすけどね。じゃあ俺、一服してから行きますわ。健さんも後数日の辛抱っしょ?」
「そ。二十日が山場。そっからの請求業務は連太郎に投げる」
「それで良いと思いますよ。じゃ、程ほどにして下さいね」
土井はそう言って席を立つと、椅子も戻さずに事務所を出て行った。
そんな訳で、本日の帰宅時間、二十三時五十九分。
エレベータに乗った瞬間に、敢え無く日付は回った。何とかバグの修正を終わらせたので、後は全営業所の決算資料の集計業務、データ作成で終了だ。但し、藤倉がまた今朝から滋賀に飛んで不在なので、有る程度は運輸をフォローをしなければならない。それでも今日まで鬼残業が続いて居た事を考えると、明日からの子鬼残業等可愛いものだ。明日こそは一緒に飯が食えそうだと思うと、心なしか気持ちが軽くなった。
一緒に夕飯が食べられない、それは矢作が美味そうにもりもり食う姿が見られないという意味だ。それは俺にとって心底残念な状態だ。何せそれが俺にとっての一番の癒しの時間だからだ。
だがそんな苦行も後三日。そうすれば決算処理と月次の〆作業も終わり、冷凍ストックでなくちゃんと調理してやれる。漸く一息吐いた気分だった。
自宅のマンションの鍵を音が立たないようにそろりと開け、小さな声でただいまと言う。
廊下のダウンライトだけを点けてキッチンに向かい、リビングの先に有る矢作の部屋を見ると、矢張りもう就寝しているようだった。
冷たいお茶を飲もう、と、起こさないように冷蔵庫を開けようとして、一枚のメモが貼られている事に気付く。
『今日もお疲れ様です! 飲みすぎ注意! 今日の親子丼も美味かった!』と、元気の良さそうな文字で書かれて居た。
普段は休憩時間にLINEを寄越してくるのに、そう言えば今日は無かった事を思い出す。もし送られて来たとしても、今日は絶対に返すのは無理だった。先述した通り藤倉が不在の為、この二週間の集大成かと言わんばかりに忙しかったからだ。藤倉の不在は一斉メールで飛んで居るので、当然優も知っている。だから敢えて、LINEを寄越さずメモを残したのだろう。
貼られたメモをそっと外し、財布に入れる。
ああ、ダメだ。可愛い過ぎるわコイツ。
そう、可愛いんだよ、最近特に。それは恐らく惚れた弱みなんかじゃない。検査結果が出るまで何とも言えないが、もしかしたらホルモン量が増えていて、それが矢作の中で作用しているんじゃないか? と感じる。時折見せる女性的な仕草が、それとなく垣間見えるのだ。
矢作が女性だから惚れたわけでは無いが、矢張り一人の男として、どうしても唆られてしまう。惚れているからこそ、尚更に。
その瞬間、土井の『いっそ、一緒に寝ちゃえば・・・』という言葉が脳裏を過ぎる。
閉じられているドアをちらりと見て、俺は頭をフルフルと振った。きっと、疲れているのだ。疲労困憊過ぎて判断が弱くなってるのだろう。
さっさと風呂に入り、今日はビールを諦めて眠る事にした。
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