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飯を食い終わり風呂から上がって時計を見ると、既に二十二時を回っていた。バスタオルで頭をがしがしと拭きながら冷蔵庫を開け、いつものお楽しみタイムに突入する。
どかりと座椅子に座り、プシュリと缶を開けて一口飲むと、それはそれはもう何とも言えない爽快感と脱力感が襲って来る訳で。でもって、脱力感と共に、睡魔まで来訪する訳で。
あー・・・ここん所の疲れがどっと来てるわー・・・。
何て思いながら眼鏡を外して炬燵兼テーブルに置き、背凭れに身を預ける。預けたが最後、意識がふわふわとし出し、いつの間にか俺は眠りこけていた。
が、頭頂部に衝撃が走り、一瞬にして眼が醒める。
「いてっ?!」
「こんな所で寝たら風邪引きます」
未だ手刀の形を保ったまま、矢作が上から覗き込んでいて。「風呂から上がってきてみたら、口開けたまま寝てるからびっくりしましたよ。ちゃんとベッド行って下さい」
「へいへい、解りましたよ」
と言って立ち上がった瞬間、寝惚けている所為か疲れの所為なのかは解らないが、ふらりと立ち眩みがしてよろめいた。
あぶな、と直ぐ様矢作は俺を支えると、俺の腕を引きよいしょと肩に組む。
「怖いなあもう。こけて頭打って打ち所が悪くて死んじゃったら、俺、一生泣いちゃいますよ」
「勝手に殺さないでくれない? てか無様過ぎん? その死に様」
「健さんなら有り得るから怖いんです」
「成る程。いや、納得させるな」
「良いから歩いて下さいよ。歩かないなら、また担いでベッドに放り投げますよ?」
へいへい、と俺が矢作の歩幅に合わせて歩き出すと、矢作は満足そうに笑った。
部屋に入り、ぼふりとベッドに倒れ込むと、矢作はPCの椅子に腰を掛ける。そして、言い忘れてたんですけどね、と続けた。
「今日、仕事上がりに病院行って来たんです。検査結果出たって、電話が有ったので」
あら、そうだったの。と、矢作に視線を向ける。だが、どうにも視界が暈け捲くって定まらず、矢作らしき人物が分身の術を使っている状態で。そこで漸く、俺は自分の分身をリビングに置いてきた事を思い出した。
「ちょい待ち、眼鏡」
そう言って身体を起すと、矢作がそれを制するように俺の肩に手を載せる。
「もう直ぐ寝るんだから、いいじゃないですか」
「いや、朝起きた時何も見えん。それこそお前の居ない所で、頭打って打ち所が悪くて死ぬかもよ?」
「後で持って来ますから。取り敢えず、話続けて良いですか?」
はいよ、と了承すると、矢作が俺の肩を押す。俺は勢いに任せて再びベッドに沈んだ。
検査の結果、基準値には到底届かないが、女性ホルモンの分泌量が上がっているとの事。だが、それ以上に驚いたのは、体内に残されている精巣が若干萎縮しているという事だった。
幼少期のCT等の検査資料が無いので何とも言えないが、良性の腫瘍なども萎縮するケースが有るので、年月を掛けてこのサイズにまで萎縮したと仮定するならば、もしかすると最終的には体内に吸収される可能性も有る、と。
そんな医者の言葉を聞き、遺伝子が本来の姿へと導こうとしているんだろうな、と感じたそうだ。
然し、どうした事か―――そう語る矢作に深刻そうな様子が見られ無い。
俺と付き合うようになり、更に俺と病院に行ってから、矢作は自身と確り向き有う様になった。だが、それでも複雑なのでは? と思ったのだが。
真意を量ろうとして見えないなりに表情を確りと見るべく、思い切り眉間に皺を寄せ眼を細めているのに気付いた矢作は、面白そうにくつくつと笑った。
「本当に視力悪いんですね」
「あの牛乳瓶の底のようなレンズの厚みを見て、伊達眼鏡だと思ってたの? 中学時代の渾名なんざ小池さんよ?」
「いや、思わないですけど。てか誰ですか、小池さんて」
そう言って矢作は椅子から立ち上がると、ベッドに腰を降ろし、俺に添い寝するかのように寝転んだ。
「ここまで近付いたら、俺の顔見えます?」
ええ、見えます。よーく見えますよ? つーか近いっての。眠気ふっ飛ぶわ。ああもう何だよこいつ、折角紳士モードに入ってたってのに。
そんな俺の心のボヤきを余所に、矢作は続ける。
「診察は精神面のサポートも含まれてるから、受けて来たんです。予約入れて無かったんですけど、入れて貰えて。で、相談したい事、相談してきました」
「へえ? どうだった」
「・・・すっごい腑に落ちた。霧が晴れた感じです」
そう言って、矢作は俺の顎の下に額を近付け、いつか見せた猫のような仕草ですり、と摺り寄った。
どうされましたか? と微笑む女医に、矢作は率直に告げたらしい。
自分の中で、どうしてもDSDの部分が引っ掛かっている。以前程では無いが、どうしても否めない感情が未だ燻っているのだ、と。
それを知りながらも受け入れてくれたパートナーに、どうすれば寄り添えられるのか。パートナーの気持ちに応えていけるのだろうか、と。
それを女医に伝えた所―――
「矢作さんは、どうしたいんですか?」
「え? だから、それを相談したくて」
「男性とか女性とかではなく、矢作優さんは、どうしたいんですか?」
「え・・・」
矢作は想像してみたという。
今まで、女性に対しても持ち得なかった感情。勿論、男性に対しても得た事など無い。
俺と出逢い、過ごして行く内に初めて生まれた感情。そして、その感情を知れば知る程に、身体の内側がぽかぽかと暖かくなり、時には熱すら感じるようになっていった。
それを率直に伝えると、女医は朗らかに微笑んだ。
「その熱に身を委ねる事も一つの手です。矢作さんは、愛したいですか? 愛されたいですか?」
「・・・両方です」
「そうですよね? でもそれは私ではなく、パートナーに伝えて下さい。二人で見付けていくものでしょう?」
愛し、愛されたい。そんなにも欲張りで良いんだ。
一人で探そうとせず、二人で探せば良いんだ。
『矢作優に惚れたんだ』と。
想いを載せて告げてくれたその言葉。
不意打ちのプロポーズ。
そうだ・・・俺独りだけじゃ一歩も前に進めなかった。
いつだって、隣に健さんが居てくれたからだ―――。
矢作は俺の顎の下でそう語り、ゆっくりと眼を閉じる。俺は身体を矢作の方に向けると片腕を頸の下に通し、そっと背中を包んでやった。
こういう時は、どうしても親心めいた気持ちになってしまう。愛情というものを知らないまま生きてきた矢作が見付けた居場所。その場所に俺を選んでくれたのだ。これが愛おしくなくて、どうするよ。
よしよしとその背をぽんぽんとしてやると、矢作は安堵したかのような吐息を零し、ぽつりと言った。
「今日、こっちで寝てもいいですか?」
「ん? いいぞ、勿論。朝までずっとこうしてるから、安心して寝ろ。何なら俺愛用の抱き枕も、特別に使わせてあげようじゃないか」
「違う、そうじゃなくて」
「?」
「こういう意味です」
そう言って矢作は顔を上げると、俺の頬に唇を当ててくる。
え? と思った瞬間、矢作は直ぐに顔を俯かせ、益々顔やらあちこちを蒸気させ、その内体内の水分全部蒸発するんじゃね? て思う位、茹蛸状態になって行く。ほんと何なの? お前元ジゴロじゃないの?
ふと胸元に在るその手を見ると、両の拳はぎっちりと握り締められ、震えていた。
はい、額面通りに受け取った俺がバカでした。
俺の中の紳士協定は本日解散です、ご苦労様でした。
ああ、自分の身体や性と向かい合う事に、どれ程の勇気が必要だっただろう。
それでもこうして俺のこの胸に飛び込んで来てくれた。
ならば、ここからは、俺の番。協定も解散した事だ、俺もとことん欲張りになってやる。
俺は矢作を目一杯抱き締めると、その頬に頬擦りする。風呂上りの石鹸の香。まだ乾き切らない艷やかな黒髪。湯上りに蒸気する肌。その一つ一つが愛おしい。
頬擦りしたままその頬に口付けると、矢作がゆっくりと顔を上げた。唇が、触れそうで触れない距離のまま、俺は訊く。
「答え合わせしようか。お前と俺と、解が同じかどうか」
「はい」
矢作はそろりと腕を伸ばすと、俺の背中に回す。それに応えるように優しく、深く口付けていった―――。
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