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早朝六時に家を出て、矢作の伯父宅に向かう道中、矢作は伯父の病気の事を話してくれた。今まで余り話題にしなかった理由は、過去、父方の祖父母に「矢作家は病気の血筋だ」と散々言われていた事に在る。俺を信頼出来る出来ない関係なく、何となく口にしたくなかったから、と。
伯父の所に父方から養育費の件で電話が何度も有ったらしく、その度に耳に入り矢作は自分を責めた。自分の所為で、伯父にまで風評被害を浴びせる事になっている、と。
当時はそう思っていたのだが、実際は伯父も大きな病気を抱えていたのを後に知り、伯父に謝られたそうだ。
「伯父さん、ALS(筋萎縮性側索硬化症)なんです。母さんが結婚する時には症状が出始めていたらしくて。その所為で破談になりかけて。遺伝性のものでは無いってかなり説得して、やっと結婚を赦されたそうなんです」
「ALSか。そりゃ大変だな・・・だから余計に、お前の事心配だったんだろうな」
「多分。でも父さん方の気持ちも解らないでも無い。親族に難病抱えている人間が居て、生まれてきた子供もDSDていう疾患を持ってて。てなると、矢作家を呪いたくなるだろうな、て」
「本人らはなりたくてなった訳じゃないんだがなあ」
「そうなんですけどね・・・」
そう矢作が言った所で、大きな庭の有る邸宅前で車を停めた。「此処です。一回しか来た事無いけど、意外と道覚えてるもんだなあ」
苦笑しながらインターホンを鳴らすと、女性の声で「はい」と応対の声が聞こえた。
「ご無沙汰しています、優です」
「たくちゃん! 待ってたわ、直ぐ開けるわね」
柵の様な門扉が自動で開き、石畳の道を進んだ先に玄関が有った。
ガチャリと音を立てて壮齢の女性が玄関を開けてくれる。その先、広々としたバリアフリーの玄関の奥には車椅子に乗った、矢張り壮齢の男性が居た。男性は膝に乗せているipadに、漸うと指を動かすと画面を見せる。そこには「おかえり」と書かれていた。
「・・・ただいま、伯父さん。楓さんも元気そうで良かった」
矢作がそう言うと、楓さんと呼ばれた女性が矢作に抱き着き、伯父さんも矢作の手を取り、その甲を指先でゆっくりと撫でた。
矢作の伯父は現在、孤児院や施設の子供らへの為の支援団体を設立しているとの事。勿論一人では到底成し得る事が出来ない為、表舞台には楓女史が立ち共同で活動している。元々伯父の学園創立時からの秘書で、リモートでは有るが、現在学園理事も務めているそうだ。
互いに仕事のパートナーとしての存在でしかなかったのだが、矢作が高校卒業を目前とした辺りで伯父のALSが進行し、歩けなくなった事で、楓さんは一念発起し結婚を申し出て、現在では奥方となっている。
「護さんね、遠慮して連絡をしてこない事、ずっと気に掛けてらしたのよ。でも、田所さんて人と一緒に暮らしてるって報告貰って、そこからたまにでも近況をくれるようになって・・・その内容が本当に幸せそうで・・・とても喜んでいたの」
そしたら、結婚するだなんて、と楓女史は嬉しそうに微笑む。「あなたをあなたとして受け止めてくれる人と出逢えた事が、私も護さんも、とても嬉しかった。遠いのに、来てくれて本当にありがとう」
楓女史は、薄っすらと涙を浮かべながらも笑顔で俺に頭を下げる。隣に座る伯父もまた、辿々しくではありながらも、僅かに頸を動かし俺に向かって頭を下げた。
「頭を下げられるような事では無いです。寧ろ、私の方が礼を言う立場です」
そう言って俺は顔を上げて貰う様に制する。「私の方こそ、優に救われました。今も、これから先も、 私を受け止める事が出来るのは、優だけだと確信しています。だから、一緒に生きて行こうと決めました。優と出逢わせてくれたその切っ掛けは貴方です。貴方が優を救ってくれたからこその出逢いですから」
そろ、と。
五十代半ば―――社長と同級生だと後に聞いた―――と言うには、余りにも皺枯れた枝の様なその腕を必死に伸ばそうとするのが窺え、俺は席を立ち移動する。空いている隣の椅子に軽く腰を掛けてその手を取ると、弱々しくも握り締めてくれた。それだで、言葉は不要だった。
ふと矢作を振り返ると、眉を八の字にしながら眼をぎゅっと閉じ、俯いていて。でもその口許はきつく縛りながらも何とか微笑もうとしているのか、口角だけが上がっていた。そして徐に顔を上げると、ほろりと一筋だけ涙を零し、漸く微笑んだ。
こんな素敵な笑顔の子だったのね、という楓女史の言葉に、矢作の伯父もipadで、ほんとうに、と言葉を返した。
予定の時間が迫りつつあったので暇しようとすると、門扉の所まで楓女史は見送ってくれた。そして、最後に俺と矢作の手を取った。
「結婚式はされるの?」
「いえ、写真だけ撮ろうかと」
楓女史はそう、と応えると、矢作に顔を向けて微笑んだ。
「此の方が隣にいらっしゃるのなら、あなたはあなたらしく居られる筈。きっと、この世の中で一番素敵な結婚写真になるわ」
そして、遠慮しないで、いつでも顔を見せに来てね、という言葉に送られ、伯父宅を後にしたのだった。
自動車道に向かうその前に、何処かで昼飯を食おうとなり、定食屋に入った。
定食屋に入る手前に観光案内板が立てられているのを見て、大学時代に一度近くまで旅行に来た事を思い出した。そしてよくよく考えてみると、此処から一時間程車を走らせたら雲海で有名な竹田城とか玄武洞など、観光名所が満載な訳で。
「勿体ねーな。次来る時は、やっぱ前張りで行こうや。ほら、神鍋高原も直ぐそこだし」
「神鍋高原? そんなに綺麗な所なんですか?」
「綺麗だぞー心洗われるぞー? 八反の滝なんか最強。大学時代に旅行で行っただけだけどな」
「旅行かあ。そういや俺、旅行行った事無いなあ」
「中高は修学旅行、行って無いんだったか」
「小学校のもです。林間学校の件以来、学校の宿泊行事、行くの辞めたんです。家族旅行なんてもっと有り得なかったし」
そうか、と俺は蕎麦を啜る。
「んじゃ、先ずは新婚旅行だな。年末年始とかで」
え、と矢作は驚いて顔を上げた。そしてキリッと俺を見据えると、頸を横に振る。
「年末年始なんて、高いからダメです」
「新婚旅行位ケチるなよ・・・。あ、そうだ。旅行積み立てしようぜ。で、年一、二泊三日位で旅行しよう」
「だから―――」
「今までして来なかった事、目一杯やろうぜ? 俺も大して旅行なんぞ行った事無いから、これから二人で色んな所見て回ろう。取り敢えず帰ったら年末年始でまだ予約行けそうな所調べよーさ」
な? と俺が言うと、矢作は困った様なそれでいて嬉しい様な、そんな表情を浮かべてから、解りましたよ、と箸を進めた。
飯を食い終わって帰路の車の中。ふと、矢作がそう言えば、と口を開く。
「俺、ALSの説明しなかったけど、健さん知ってたんですか?」
「ん? ああ、知ってる。ホーキング博士が罹った難病だからな」
「何か聞いた事ある名前・・・あ、この人か。昔ネットで見た事有る」
スマホで検索を掛けて何かの記事を開いた様で。「この人もそうだったんだ・・・凄い、七十六歳まで生きたんですね。伯父さんも発症してからって考えたら、長生きに入るけど」
「そうだぞ。まだまだ長生きして貰おうぜ?」
「はい。また逢いに行きたいです。今度は前張りで」
矢作は神鍋高原に行ってみたいな、と笑った。
「そうそう。ホーキング博士といや、俺の本棚に著書が有るぞ。小難しい理論の中にもちょっとしたユーモアも有るから読み易い」
「それは理系限定なのでは・・・」
「そうか? まあ気が向いたら読んでみ。あ、そこのコーヒー取って」
と、IC前のコンビニで買ったコーヒーを取って貰うと、一口飲んでからカップ置きに置いた。
ホーキング博士も若い頃にALSを発症した。ALSは通常、発症から五年程で死に至るとされているが、余命宣告を無視するかのように長生きしたのだ。
そして宇宙科学分野に於いて多大なる貢献と発展を齎し、量子宇宙論を作った理論物理学者である。
そんな彼は、子供達にこう残した。
一つ目は、足元を見るのではなく星を見上げる事。
二つ目は、絶対に仕事を諦めない事。仕事は目的と意義を与えてくれる。それが無くなると人生は空虚だ。
そして三つ目は―――もし幸運にも愛を見付ける事が出来たら、それは稀である事を忘れず、決して見放してはいけない。
愛といえば神、みたいな哲学者が多い中、神の存在を真っ向から否定していた博士のこの三つの言葉の中に、子供らへのより深い愛情を感じたのを、今更ながらに思い出す。
神というものは目に視えない存在で、そもそも古来より森羅万象を指している。自然が自然たるそのままのものが神なのだから、願っても祈っても金払っても、神様は一個人を愛さなくて当然だ。誰しもに平等なのだから。
ならば目の前に存在している、愛すべき人をより深く愛する事の方が重要だ。博士のこの言葉は、俺にとって色んな部分でしっくりと来る言葉だった。
ふと気配がしなくなった助手席を見ると、矢作はまたもすやすやと眠りこけていて。どうやら安心したら眠ってしまう癖が有る様だ。
その寝顔を見ながら、奇跡とはこういう寝顔を見られる事なのだ、と感じたのだった。
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