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さてそんな訳で迎えた十月三日。
俺の三十一回目の生誕祭で有りながら、親父の葬式だった日でも有り、結婚記念日というイベント盛り沢山な日でも有る。つかイベント多過ぎる事無い? と思いつつも、些か俺は緊張していた。
朝の内に市役所に行き婚姻届を恙無く提出。一旦家に戻り、仏壇の中笑顔で並ぶ両親に結婚したぞ、と報告する。
互いに誓いの言葉なんてのを述べる事も無く、というかどう述べたら良いのか解らないまま、無言で指輪を交換し合った。
お互い顔を見合わせて妙に照れ臭くなって噴き出してしまう。俺達らしくて良いんじゃね? なんて言いながら、仏壇の前で誓いのキスらしきものを交わした。
さて緊張の本番はここからだ。
予約していた写真館に向かい、衣装合わせをする。まさかよもや自分がタキシードを着る日が来る等、予想だにしていなかった。
無難な黒のタキシードを選んでいたら、スタッフに「新郎様は背が高いので絶対こちらが良いですよ!」とグレーのフロックコートを薦められる。値段を見てみると大差無いので、まあこれで良いやと決めた。オプション料金が跳ね上がると、矢作に叱られるしな、と。
因みに本日は「丸い瓶底眼鏡はダメです。しかもフレーム歪んでます」と、矢作が見立てて買ったウェリントン、しかもリムレスを掛けている。違和感この上無いが、珍しく張り切って財布の紐を緩めて買ってくれた物だ。まあその内慣れるだろう。
そうこうしている内にヘアセットやら何やらして貰い、胸ポケットに小さな花を刺されてから、先に撮影場所にどうぞ、と言われて中に入った。
螺旋階段だとかアーチ型の窓だとか、花飾りだとか天井からぶら下がるレースだとか何処までもこ洒落ていて、何だか場違いでソワソワしてしまう。しかも最終的には三枚だけのピックアップだというのに、百枚位スナップを撮るというのだから、撮影時間は一時間程掛かると言われてしまった。
矢作の希望とはいえ、さくっと終わらせて家でゆっくりしたいもんだな、と、螺旋階段に腰を掛けた時だった。
「新郎様、お待たせしました」
そう言って、スタッフの手に引かれて入ってきたのは―――誰だ? と、一瞬で目を疑った。そして、それが紛れもない矢作本人だと認識した瞬間、俺は全身が固まってしまった。
そうだよ。こいつ、イケメンなんだよ。顔立ちが端正なんだっての、毎日見てるからすっかり慣れちゃってたわ。
で、イケメンって事は、美人って事なんだよ。そもそもの素材が良いって事なんだよ。つか化粧してるよな? 唇、なんか艶々してるし。ちょっと頬もピンク色だし。てか、え、肌そんなに白かったこいつ???
固まったまま動揺してしまい、矢作から照れ臭そうにどうですか? と訊かれても、俺は何一つ返答出来なかった。
すると、隣に立っていたスタッフが若干興奮気味に捲し立ててきた。
「素敵でしょう? エンパイアドレスでも古代ギリシャ風のドレスなんです。両肩から裾まで流れるリボンドレープとか、シルクオーガンジーの素材とか、可愛いらしさの中にスタイリッシュさも有って。花嫁様、素材が良過ぎて何着てもお似合いだったんですけど、もうこちらのドレスが抜群過ぎて、モデルさんみたいです! 背中のラインもとてもお綺麗なので、ベールは辞めて、髪をアップにしてアイビーのヘアバンドにしたんです。女神様みたいに綺麗で、女の私でも惚れ惚れしちゃいますよ!」
うん、言っている事の半分以上理解出来ん。出来んが、それこそギリシャ神話の絵画から飛び出してきた女神の如く美しい事だけは理解出来た。
いかん。身体が動かん。しかも、心なしか身体が震えているような気がする。
「健さん?」
矢作は屈み込んで俺の顔を覗き込んで来る。
ダメだ、言葉がどうしても出ない。あまりにも綺麗で、どう言葉にすれば良いか解らない。どうにかして俺は膝に置いていた手を握り締めると、それに気付いたのか、矢作はブーケを手にしたまま俺の拳の上に手を載せた。
途端、目頭が熱くなってしまい、意図せずに俺の目から一粒、また一粒と涙が零れ落ちた。そんな俺の貌を見た瞬間、矢作は一度大きく目を瞠り、そして嬉しそうに美しい笑顔を零した。
「・・・やっと仕返し出来た」
その言葉で漸く金縛りが溶けたかの様に身体が動く。慌てて眼鏡を外してぐいと指先で目頭を抑えると、その手を再び矢作が包み込んだ。
「健さんのこんな顔見たの、初めてだ。ドレス着る事にして、本当に良かった―――楓さんの言う通り、この世で一番、最高の結婚写真になりそう」
それはそれは満足そうに微笑んでくれるものだから。
「・・・優」
「はい?」
「ありがとう―――愛してる」
するり、と。何の衒いも無く言葉が涙と共に滑り落ちた。
「それについては、俺の勝ちです」
矢作はと小声でそう言うと、ふわりと俺の頭を抱え込んでその胸に埋めさせる。
「これからも、俺に沢山の『田所 健』を見せて欲しいです。その為だったら、俺は何だってする。どんな事でも、したいんです。それが俺の幸せに繋がるから。だから、俺の全部で健さんを愛していきたい。今でも十分愛されてるなって思ってる、でも、もっと―――これから先もずっと、俺だけを見ていて欲しいし、愛されたい。・・・欲張りになっていいんですよね?」
そう告げる矢作の声も、少し震えていて。
俺が矢作の胸の中で何度も頷きながらその腰に腕を回すと、矢作も腕に力を込めた。
感動で涙が出るなど、生まれて初めてだった。
記憶を辿って見るが、そもそも感情を伴った涙を数える程しか流した事が無い。母が死んだ日と親父の葬式が終わった夜以外で、涙を流した記憶が無いのだ。彼女に振られた時など、俺の替わりと言わんばかりに先輩が泣いてくれただけで、俺自身は涙の一つも出なかった。
子供の頃も大人になってからも、嬉しくて大喜びした日は何度も在る。感動した出来事だって、多々在った。だが、そんな想い出が一蹴される程の感動が目の前に存在し、今俺の腕の中に在る。そして、これからも俺と共に在り続けると、言葉以上の想いが、その全てから伝わった。
出逢ったのは職場でただの後輩社員だった。
えらいイケメンが入って来たもんだなあと思った程度でしかなく、奥山達が入社するまでは、それこそ挨拶や軽い雑談程度しかした事が無かった。
誰にでも人懐こい奥山は入社早々俺にも懐いてくれ、やがてちょくちょくと飯を食いに行く様になった。その度に必ずや参戦してくる土井ともつるむようになり、そして、奥山と土井が矢作を引き摺るように連れて来て。挙句には藤倉まで顔を出すようになり、今の個性塗れなチームが出来上がった。
色々と問題が発覚して半ば強制的に同居を始めたが、それこそ最初のうちは捨てられた仔猫や仔犬を保護した感覚でしかなかった。
だが、保護されたのは俺の方だった。
伽藍堂の様に広がる俺の中の真っ暗な空洞。そこにぽつんと置かれていた宝箱の鍵を開ける事が出来たのは、矢作が真っ直ぐな心で『俺』を見付けてくれたからだ。そして今や、その空洞の壁を叩き割ってくれた。
叩き割られた壁の隙間から差し込む光が、宝箱を中心に空洞を彩っていく。それは驚く程柔らかで暖かく、優しさを孕んだ世界が拡がっていて。
まるで、親父が作ったあのジオラマのような世界だった―――。
矢作の胸に額をあてたまま目を閉じていると、心臓の音が微かに聞こえてくる。その鼓動が余りにも心地好く、何時までも包まれていたくなってしまう。
これで二度目だな、と思いつつ己の感情に浸っていると、カシャリとカメラのシャッター音が聞こえ、現実に引き戻された。
ふと抱え込んでいる頭から腕が解かれ、俺の頬がふわりとその手に包まれた。
「健さんのこんな顔見られるなら、家でもスカート履いてみようかな」
もっと惚れさせてみようかな、と、悪戯っぽい笑顔で宣うもんだから。
「スカートだろうと制服だろうとジャージだろうと素っ裸だろうと、お前がお前である限り、俺はお前に惚れ続けるだろうよ」
漸くそうやって切り返すと、矢作はくっそ、負けた!と笑ったのだった。
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