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自宅マンションのエントランスに到着し、集合ポストを確認していると、矢作は不思議そうにポスト周辺を眺めた。
最近の分譲マンションはほぼオートロックで、コンシェルジュが居たりペットのトリミングルームが有ったりとまあ、設備満載だが、残念ながら我がマンションは俺が生まれる前からの物件で、エントランスから階段やエレベータに直行出来てしまう。なので、もしかすると構造が珍しいのだろう。
「古いだろうちのマンション。それでも三度の震災乗り越えて罅一つ無いんだから、なかなか安心の建屋だぜ」
「いや、それは何も思わないんですけど」
違うんかい。
「個人情報とかうるさいのに、ここのマンション皆ポストに名前書いてるんだ、と思って」
「ああ。賃貸や他の分譲はどうか知らんけど、ここは昔からそうだな。管理会社の規定で」
「健さん、田所って苗字なんすね」
そう言って矢作はくつくつと笑う。「いや、皆健さんて呼んでるから釣られて俺も健さんって呼んでたけど、よく考えたら苗字知らなかったなーって」
「マジで? ちょくちょく一緒に飯食いに行く仲だってのに・・・」
しょんぼりしたままエレベータに乗り込むと、矢作はふわふわとした笑顔のまま、ボストンバッグを肩に抱え直した。
自宅に招き入れると、空室になっている部屋に直行した。
「押入れん中に布団と乾燥機入ってるから、適当に使え。風呂入ってくっから、適当にやってて。冷蔵庫にコーヒーとかもあるし。ホットが良いなら、棚に豆も有るから」
「いや、それは悪いです」
「これから暫く住むってのに、冷蔵庫使わないの、お前? 幾ら秋でもまだ暑い日あるのに冷たいもん欲しくなった時どーすんの? 俺がアイス食ってるの泣きながら指咥えて見とく?」
「それは拷問ですね」
「だろ? あ、あと部屋も自由に散らかしていいからな」
俺は苦笑しながら、未だに肩に抱えたままのボストンバッグに指を差した。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
そう言って矢作は肩からボストンバッグを降ろし、チャックを開く。中に入っている荷物を垣間見て、俺は呆れた。
「ちょい待ち。制服に制服に制服に・・・カットソーにデニム。私服、こんだけ?」
「? はあ」
「部屋着になりそうなやつ、全然無いじゃないの」
「基本制服のまんまなんで」
「風呂上りでも?」
「数時間したらまた制服着るし、皺にならない素材だから別に良いかなって。あ、でもちゃんと洗濯した制服に着替えて寝てますよ。うち制服の支給そこそこあるから、その辺有り難いというか」
俺は更に呆れて無言になると、自室へと向かった。クローゼットから適当にTシャツとジャージを取り出すと、そのまま風呂場に向かい籠に入れ、風呂場から声を張る。
「着替え、籠に入れといたから。サイズでかいかもだけど」
「いいすよ、制服あるか―――」
矢作が言い終わる前に、俺は制服を脱ぎながら食い気味に言う。
「いいか? 部屋着やパジャマっつーもんは、疲れた身体をリラックスさせてくれて、睡眠の質を高めるもんなんだ。質の悪い睡眠や睡眠不足は、レスポンスを大いに低下させる。お前らドライバーは、事故の発生率を高めるリスクを背負うって事だ。故に、ゆったり確り眠らにゃいかん」
「解らんでも無いですけど、俺、何着てても爆睡出来るから問題無いですよ。そういう生活してきてるんで」
どういった生活してきてんだよこいつ。
「生活習慣、今から変えといた方がいいぞ。七年後、後悔するから」
「何か後悔してます?」
「そらもう山程な」
そこまで言って俺は風呂に入った。
風呂から上がり、続けて矢作も風呂に入るよう促す。話をしてから風呂になると、就寝が遅くなってしまうからだ。矢作は早朝五時出勤なので、必要以上の負担を掛るのを避けたかった。
帰りの車内で話しても良かったのだが、何となく下らない話をした。大事な話は面と膝頭を突き合わせての方が良い。
そう。
大事な話をしなきゃならん。が、風呂上りの俺の趣味は、誰にも止められない。
俺は冷蔵庫に常時待機させている缶ビールを手に取ると、座椅子にどかりと座り、本日のお楽しみである缶ビールを掲げ、プシリと音を立てプルトップを引いた。
更にぐいと流し込み、喉を鳴らす。うん、一日の疲れがさっと飛び去るわ。
その瞬間、お風呂あざーすと矢作が現れ―――
「あ! 呑んでる! ずる!」
「ずるくないですー。ドライバーじゃないのでー。出勤時アルコールチェックしませんのでー。つか、お前風呂早いな。折角だからって高級入浴剤入れたのに。下呂温泉よ?」
「俺シャワー派なんで」
「あっそお・・・」
俺が態とらしく肩を落とすと、矢作はいつものふわふわとした笑顔を見せる。
「あ。Tシャツとジャージ、ありがとうございます」
そう言って矢作は頭を拭いていたタオルを肩に掛けた。
しっかし・・・こいつ、えっらい華奢だな。
ジャージの裾巻き上げすぎて、足首でドーナツになってるし。俺のTシャツも彼シャツみたいになってるし。
いやいや頸とか手首とか足とか、どんだけ細いのよ。これでこいつ、長尺もんの重量物、軽がる肩に担いでるんだから驚きだ。インナーマッスルどーなってんのよ。
小柄で背が低いのはドライバーに有り勝ちな話だが、その分筋肉ダルマみたいな体型な奴が殆どだ。奥山も小柄で背が低い方だが、腕や脹脛にはそれなりに筋肉がある。
因みに俺は178cm有る。体重も基準体重、所謂中肉中背ってやつ? ま、ちょっとした自慢だ。
俺はぐいと残りのビールを呑みながら、リビングの座椅子に座るよう指を差す。矢作はそれこそちょこんという擬音がつきそうな体で、座椅子に座った。
「・・・さてと。あれだ。疲れてるなら、話はまあ明日でも良いぞ」
「健さんが大丈夫なら。俺は全然大丈夫」
「あ、そ。じゃあ、当面の話な。アパートが決まる迄の間、光熱費類は半額負担でよろしく。洗濯は各々でやる。掃除はそうだな・・・週一でいいから、リビングからそっち任せるわ」
「風呂掃除とかトイレ掃除もやりますよ」
「そお? んじゃ宜しく。後は・・・食材とか食い物、飲み物買ったら、冷蔵庫入れる前に名前書く。書いてないと容赦なく飲み食いするからな、俺。家賃はいいわ、ローンとか無いし」
「いやでもそれじゃ」
「だってお前金無いじゃん。つか、荷物もさっきのボストンバッグだけだろ、どーせ」
「はい」
矢作は驚く程あっさりと言う。
「衣類とか貴重品以外でさ、元カノん所に、お前が買った家財道具とか、何も残ってねえの?」
「無いです。元々一人暮らししてる彼女のマンションに転がり込んだので」
「へえ。それにしても少なくないか?」
「まあ・・・住んでたって言っても、二ヶ月程だし」
「それまでは? その頃の荷物とかは?」
「その前の彼女も一人暮らしだったので、今と同じで何も」
「何そのジゴロみたいな生活・・・ちょっと羨ましいわ・・・」
「人聞き悪い言い方辞めて下さいよ。ここ一年程こんな感じなだけです。それに生活費は渡してたから、ヒモでも無いし。去年までは高校の連中と、家財道具揃ってる賃貸でシェアハウスしてたんですよ」
そう言って矢作は苦笑する。「俺以外全員大学組だったもんで、留年しない限り就職のタイミングが同じじゃないですか。で、就職先が他県とか皆バラバラになるし、俺も一人じゃ家賃高過ぎるしって事で、解約したんです。タイミング良く一人暮らしの彼女出来たから、転がり込んで。振られたり実家住まいの彼女とかの時は、漫喫で過ごしてて。今回は漫喫潰れててマジで焦った」
「成る程な、それで家財道具的なもんは、そもそも持った事が無いと」
「そうなんです。まあ身軽で良いですけどね」
「身軽過ぎるにも程が有るだろ。つか、お付き合いサイクル短命過ぎじゃね? 女見る目ちゃんと養いなさいな」
かれこれ五年以上彼女居ない俺が言うのもなんだけど、と付け加えると、矢作は声を上げて笑った。
「うっそ、マジすか。健さんモテそうなのに」
「うっさい。モテてたまるか」
「モテたいのかモテたくないのか解らない切れ方しないでくださいよ。健さんがモテないてのが本当なら、眼鏡が似合わないからっすよ。背高いわ面倒見いいわで、モテ要素多いんですから。てか、コンタクトにしたら良いのに」
「眼球に異物を貼るだなんて恐ろしい・・・!」
「どこの女優さんですか」
俺が胡坐を崩して横座りをすると、矢作はそう言ってまた声を上げて笑い、かと思うと、ふと俯いて小さく溜息を零した。
「何よ急に深刻になって」
「いや・・・確かにサイクル短命だよなーって。そもそも付き合ってって言ってくるの、向こうなのに」
「それは俺にも解らんわ。女って、些細な事で絶対零度まで冷めたりするみたいだし」
「ですよねー。・・・俺の事、理解ってくれてるって、信じてたんですけど」
理解ってくれてる、か。
性別どころか、そもそも他人同士。仮令親子であろうと、理解し合える事など奇跡に等しいものだ。
理解出来るのは事象と現象、思考のベクトルだけで、対峙する相手の感情は想像する事しか出来ない。想像から相手の感情を推し量る事と、理解する事は全く別物だ。
森羅万象、生れ落ちた瞬間に何れは死が訪れる。これは決定事項であり、故に生という点から死という点に向かい、休む事無く歩み続く線となる。その線は、点には戻る事は無い。
だが人間は感情を持ち意思を持ち、社会形成を成す生物だ。人間同士という線と線、所謂平行線が周囲を取り巻くが、交わる事は無い。然しながらその線は、思考のベクトル転換やら感情やら経験やらによって湾曲する事で、対峙する人の進む線との距離が時には縮まり、時には拡がっていく。
その距離が拡がり過ぎない様、互いにとって良い距離を保つ為に必要なのが、話し合いだとか、折り合いを付ける、というものだ。
俺的には、近似値を弾き出す作業と似ていると感じる。
だから、理解しなくても、出来なくても良い。それでも尚寄り添ってくれる平行線に信頼を置き、応えていくと、俺は決めている。まあここの所、そういった平行線は、友人関係だとかに絞られてしまっているが。
・・・矢作は不器用過ぎるんだろう。若さも有るのだろうが。
「ま、いつか理想に近い相手と巡り逢えるんじゃない?」
「理想というか何と言うか・・・まあ、そうですね」
矢作は微妙に言い淀むと、いつものふわりとした笑顔を浮かべた。相変わらず何考えてるのか良く解らんな、と思いつつ、話題を変える。
「それよかお前、アパート借りるのに保証人に困ってるみたいだけど、親御さんやら親戚やらは?」
「ああ・・・疎遠で。俺、中学入る前に親元離れたんで。高校までお世話になった親戚は今、具合悪くて」
「ありゃ、すまん。複雑なんだな」
「複雑って程でも。いやまあ複雑っちゃ複雑か」
何気に闇が深そうだ。が、そういった過去に起きた事情は、今後の俺には関係無い。過去への深入りは、対策が必要な事象が起きてからで良い。俺は自分をそう言い聞かせた。
「保証人が必要なら俺がなってやるから。借金とかの保証人は無理だけどな」
「これ以上迷惑掛けられませんって」
「迷惑だったらとっくに見放してるがな」
そう言って俺がにかりと笑うと、矢作は申し訳無さそうにぺこりと頭を下げた。
「・・・亘さんが」
「? 亘?」
「はい。亘さんに言われてたんです。『俺実家住まいで妹居るから無理でごめん。でも』」
「ほお」
「『藤倉さんと健さんなら、絶対何とかしてくれるから。あの人たち、そういう人たちだし。近い内に必ず相談しとけ』って」
「あらまあ。意外と人望有るのねえ」
「うちの会社、お節介な人多いっすよね」
そう言って、矢作はいつものふわふわとした笑顔ではなく、嬉しそうな―――歯を見せるような笑顔を見せた。
なんだ、こんな笑い方も出来るんじゃねえの。
何だか妙に照れ臭くなって視線を逸らし、俺はリビングボードに置いている時計を見る。
「十時か。俺ぼちぼち寝るわ」
「すいません。週末には自転車買いに行くんで」
「買いに行くの付き合ってやっから、最低限必要な生活用品も買っとけ。部屋着は必須だぞ」
「ありがとうございます。あ、と明日から通勤の運転、俺がやります」
「あったりまえだ。んじゃ四時半に起こしてくれなー」
そう言って俺は自室へと向かった。
しっかしまあ・・・忌引き明けにこんだけバタバタするのも、俺くらいじゃね?
そんな事を重いながらベッドにぼふりと倒れ込み、ジャージのポケットに突っ込んでいたスマホを、充電するべく取り出した。そこで漸く飯を食っている最中に何度かバイブが鳴っていたのを思い出し、メールとLINEを確認してみたら三件通知が届いていた。
一つは社内メールで、育児休暇を取っている柳だ。一斉メールを確認した後に奥山と連絡を取っていたようで、ブッキングを平謝りし、早目に復帰した方が良いのか、という相談だった。
なので、奥山や後輩らの為に、福利厚生を確り活用出来る、という履歴を残したいから、きっちり休んでくれ。復帰後は馬車馬宜しく働いて貰うからご安心を。と返事をする。
残りはプライベートのLINE。奥山から二件。お疲れ様ですのスタンプと、『優、大丈夫そうすか?』とだけ。
捕獲したから安心しろ、と返すと、俺はスマホを充電器に差込み、そのまま眠りに就いた。
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