願い事

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生き物の中で犬だけが神様と話が出来る。 ミナは父の介護とパートを三つ掛け持ちしていて自分の時間はほぼなかった。 飼い犬のペンに今日の出来事を話す時だけが癒しだった。 「ねえペン、どこかに2万円落ちてないかな」 今月の支払いが、どう計算しても2万円足りない。ミナは今までペンにはお金の話しをしたことはなかったのに、ついポロッと言ってしまっていた。 ミナは言った後でペンに抱きついて、鼻をすすりながら声にならない声で「ゴメンね」と呟いた。 もう限界だった。 一日に寝る時間は5時間ほど。これ以上もう何も削るものはなく、それでも生活するお金が足りない。今月だけじゃなく、来月も再来月も2万円ずつ足りないのだった。幸いなのは2万円が必要なのは2週間後だということだった。 ミナはペンと散歩に出かけた。三日ぶりなのでペンは大喜びだった。本当はソファに寝転がって休んでいたかったが、いや、本当に寝転がって休んでいたが、1分もしないうちにペンがソファに駆け上がって来て、顔をペロペロ舐めるので「散歩に行こうか」と起き上がったのだった。 住宅街を抜けて車通りに出ると、ペンはいつも苛立ったような足取りになる。車が嫌いなのだろう。だから横断歩道を渡ってまた住宅街に入るのがいつものお散歩コースだった。 ペンはその日、横断歩道を渡るのも嫌がっていた。リードを強く引張ってもなかなか進まない。青信号が点滅を始めたので、さらに強く引っ張って「ぺン、早く渡ろう!」と大きな声をかけた。なんとか信号が青のうちに渡り終えたと思った瞬間、向こうの道から来た車が急に右折してドンッ!と何かにぶつかった音がした。 車はすぐに急ブレーキをかけて止まると、中から年配の婦人が降りて来て、ミナに何か言っているが、何を言ってるのかさっぱり分からない。婦人は大慌てだったので、支離滅裂な言葉を発していたが、それよりミナの方にも問題があった。 ペンが横たわっていた。 そして立ち上がろうとしたペンは立ち上がれず、やっと立ち上がった姿は右後ろ足が地面に着いていなかった。 それを目にしたミナはただ立ち尽くして、誰の声も耳に入っていなかった。 やっと状況が飲み込めたミナはペンに抱きついて「ごめんなさい。ごめんなさい。」と何度もペンに謝った。不思議と涙は出なかった。 どのくらい時間が経ったのか分からなかったが、やっと婦人の声が耳に入って来た。 「車に乗って下さい。病院に行きましょう。」 そう言われた気がして、それが何を意味するか理解出来ないでいたが、言われるままにペンを抱き上げて車の後部座席に座った。 その車の名前は知らないけど、高級車であることはミナにも分かった。 10分ほどで動物病院に着くとすぐに処置室に入れてくれた。ミナはその後のことは覚えていない。だけど婦人の顔に見覚えがあるような気がしたのは覚えていた。だけどこんな上品な婦人と接点があるはずがない、思い違いなんだろうと思った。 気が付けば待合室のソファに一人で座っていた。先生がペンを抱き抱えて目の前にやって来た。 ペンが普通に歩けなくなる。他に怪我した所はない。ということを優しく分かりやすく話してくれた。先生の優しい目に見つめられて、ミナは涙が溢れ出して止められなくなった。 婦人は先生の後ろに立って声を出せないでいた。 気が付くと先生はもういなくて、ミナは婦人に、嫌がるペンを強引に横断歩道を渡らせたことを謝っていた。婦人は何度もペンとミナに謝って、二人の間の時間が止まった。ペンはどちらかが声を出す度に頭を動かして、クリンとした可愛い目を向けた。 病院の支払いは婦人が済ませてくれた。 ミナは婦人に促されるままペンと後部座席に座った。家まで送ってくれるらしい。お母さんは家にいるのかしらと聞かれ、いませんと答えた。連絡を取りたいと言われてやっと、十年前に病気で亡くなったと答えた。お父さんはと聞かれたので、家にはいるけど病気で寝たきりだと答えた。婦人はもう何も聞けなくなった。 車は集合住宅の前に着いた。運転席から振り返った婦人はやっとミナのことを尋ねた。 ミナはパートを三つ掛け持ちしながら、父の介護をしていると答えた。 「失礼だけど生活は苦しくないの?」 ミナは今まで知り合った人全員にこう聞かれ、ただ苦笑いするしかなかった。でもこの婦人は見ず知らずの人で、もう会うこともないと思うと、苦笑いより、思ったままを言ってしまいたいと思った。 「苦しくて苦しくて、消えてしまいたいけど、消えるとお父さんとペンが困るのでなんとか生きてます」 「そう・・・・それは大変ね」 ミナはそのなんの感情もない言葉を聞き飽きていて、大人ってみんな同じなんだなと小さく息を吐いた。だけど続けて言った婦人の言葉に、目が顔からはみ出るほど驚かされることになる。 「それじゃあ私が持ってる借家に引っ越しなさいよ。家賃はいらないから」 「えっ」 ミナはそれしか声が出なかった。 婦人の隣の家が引っ越しして空き家になったが、次にどんな人が住むのか不安だから買い取って、いずれは誰かに貸そうと思いリフォームを済ませたのが一ヶ月前のことだという。 「幾らでお貸しする予定だったのですか」 ミナは恐る恐る聞いた。値段を聞いたところで一軒家の家賃など払えるものではなかったけれど。 「さあ、私もそこまでは考えてなかったのよ。でもあなたになら、こう言うのは間違ってるかも知れないけれど何かの縁だと思うの。ワンちゃんには痛い思いをさせてしまったけどね。あなたに住んで頂けるなら私は安心よ。だからそうねえ、あなたが結婚するまで家賃は要らないわ」 「そんな、もし私が一生結婚出来なかったらどうするんですか?」 「ふふっ、大丈夫。あなたならそんな心配いらないわ。それにもしそうなっても約束は約束なので一生家賃なしで住んでもらうわ」 「どうしてそこまで・・・・」 「それはね、負い目とかじゃなくて、あなたと話してるとそうせずにはいられなくなってしまっているのよ、私も不思議だと思うわ」 「ご家族に相談しなくて決めていいのですか」 「私、独り身なのよ。なのに大っきな家に住んでいるの。主人がお金持ちだったのたけど5年前に病気してあっさり死んじゃったの。子供は出来なかったし。だから心配はいらないわ。それと引っ越しにはお金がかかるからその分のお金は出させて」 ミナが一番先に思ったのは父に言ったらなんて言うだろうかだった。全く想像が出来ないのは、とても強気だった父が病気してどんどん弱気になってしまっているのを日々感じていたからだった。 「それよりあなた、パートは全部辞めなさいよ。私の仕事を手伝ってくれたらちゃんとお給料を支払いするわ」 「仕事って」 婦人はミナの言葉を遮るように、仕事と言っても幾つか持ってる不動産の家賃収入の管理だと言った。 結果的にはミナの父はあっさりと「助かるなぁ」と言ったきり、あとはミナに任せると言って眠ってしまった。 婦人は引っ越し費用としてすぐに20万円を口座に振り込んでくれた。余ったら自由に使ってと言ってくれて、引っ越し代と足りなかった2万円を払っても10万円ほど残った。 引っ越しはあっと言う間に済んで、その家はリフォームのおかげか築20年とは思えないほど綺麗な二階建ての3LDKだった。 隣の婦人の家はその三倍ほどの大きな家だったが、いかにもお金持ちという家ではなく、質素な構えの、だけど見る人が見ればお金が掛かっていると分かる佇まいだった。 ミナの仕事は在宅で、振込まれる家賃収入をパソコンに入力するだけのものだったので、週に2時間もかからなかった。婦人はそのお金の運用を証券会社に一任していたが、そのやり取りにもミナは同席するようになって、意見を求められたりもした。それで月に21万円貰った。婦人曰く年齢給というものらしく、1つ歳を取れば1万円増えるというものだった。だけどそれもミナが結婚するまで。もしも結婚出来なくて100歳まで生きたら月給が100万円になってしまうから、28歳を過ぎたらもう増えないという約束になった。 そして1年後に父を見送り、ミナは住んでいた家を引き払い、婦人の家に住むようになった。ペンも一緒に。 ミナが住んでいた家は家賃15万円で貸し出したが住み手は見つからないでいた。ミナは1年の間に投資の勉強をして婦人に的確なアドバイスが出来るようになっていた。 すべてが夢のようで、なんて幸せなんだろうかとペンの背中を撫でながら辛かった日々の方が夢だったのではと思ったりもした。 あの苦しかった日々は遠い昔の色褪せた思い出として古いアルバムに仕舞われて再び開かれることはないはずだった。 ミナはペンに寄り添って眠ってしまっていた。 辺りはもう薄暗くて目をこすると立ち上がったペンが歩いて行く。あれ?ペンの足が治って普通に歩いている。ずっと後ろ足を引きずって歩いていたのに。あの動物病院の先生は普通に歩けなくなるって言ってたのに。 「ペン、何処に行くの?」 ペンは振り返ってクウンと言った。 気が付けばこの部屋はミナが以前住んでいた集合住宅だった。テーブルの上のカレンダーの丸印には2万円と書いてある。スマホを開くと今日の日付は丸印の2週間前だった。 「えっ?」 気が付けばペンが顔をペロペロと舐めている。 「えっ?夢?夢だったの?」 急いで隣の部屋にいくと父が寝息をたてて眠っている。生きている。 父が生きている喜びは2万円の心配を遥か彼方に追いやった。涙がポロポロ溢れた。 「そんな話ある訳ないよね」 ミナはペンに抱きついて耳元につぶやいた。 ペンの耳がピクッと動くとインターホンが鳴った。インターホンのボタンを押してから離すまでにかなりの時間がかかった音だった。 ドアを開けると、女性がやさしく微笑んで立っていた。あの婦人だった。 「あなたにお話があるのよ」 ペンが背中でクウンと言った。 「ローリーがね、いえ、あなたの家でペンよね。ペンちゃんが話してくれたのよ、あなたのことを」 「えっ?」 ミナは横で伏せているペンを見た。 ペンは目を閉じていた。 「昔に私が飼っていたのよ、ペンちゃんを。 それでね、ペンちゃんがあなたのことを助けたいって言うから、ちょっと回りくどいけれどあなたに分かってもらえる方法にしたの」 「えっと、あの、すみません。それってどういうことなんですか」 「それは私もうまく説明出来ないの。私の世界では、ここで言う時間っていうものがないのよ」 「私の世界って、この世界の人じゃないんですか」 「なんて言ったらいいのかな。この世界に私はいるけど別の世界にも私がいるの。同一人物だけど」 「ペンは?ペンもそうなんですか」 「そうなんだけど、別の世界ではローリーよ。私がつけた名前だけど」 「じゃあ八神さんとペンは宇宙人?それとも神様なんですか」 「この世界では私は八神だったわね。神って付いてるけど神様じゃないわ。どっちかと言うと使用人かな。そしてローリー、いえ、ペンちゃんが神様の思いを私に伝えてくれるのよ。私はそれを実行するの」 「神様って本当にいるんですね。ちっとも願いを聞いてくれなかったんですけど」 「みんな誤解してるようだけど、神様って人間の願いは聞こえないのよ」 「えっ、神様なのに聞こえないの?」 「そういうことになってるの。でもね、生き物の中で犬だけが神様と話が出来るの。 だから神様はペンちゃんの願い事を聞いてくれて私の出番となったの」 「ペン!」 ミナが叫んでペンに抱きつくと、ペンはミナの顔をペロリと舐めた。 「でも実際に助けてくれたのは八神さんだったけど、それは夢だったの?」 「そうね、夢だったと思った方が分かりやすいわね。今あなたには二つの道があるのよ。私と暮している二年後に戻るか、戻らないか。それを選んで欲しいの。そういうルールになっているのよ」 「戻らなかったとして、私が今日ペンと散歩にいけば同じ未来になるんですか?」 「同じにはならないわ。別の未来になるのよ。どんな未来になるかは私にも分からないの。でもペンの願いは一人につき一回だけだから、この先私と出会うことはないはずよ。今のこの世界はペンの願いを神様が聞いてくれて私に連絡が来たけど、あなたがそれを選ばなかったら、それはなかった世界ってことになるのよ。」 「私が二年後の世界を選んだら、今日のこの出会いはどうなるんですか?」 「今日の出会いそのものがなくなって、あなたの記憶にも残らないのよ。もし今の世界を選んだら、私との記憶は全てなくなるのよ。」 ミナはなんとなく仕組みが理解出来たような気がした。それと同時に、ある思いが浮かんだ。だけどそれを口に出すのは自分勝手なことで、神様が関わる話にそれは無理だと思った。 ペンがクウンと言った。 八神はペンに目をやった。 「そうね。その方がいいのかも知れないわね」 そう言われたミナは八神を見上げた。 「えっ?」 「あなたの考えはこうね。10年前に戻れたら、あなたのお母さんはまだ生きてる。そこからやり直せればその10年後、つまり今は違ってるんじゃないかってことでしょ? 2年後から今に戻れたのなら、今じゃなくてさらに過去に戻れるのでは?ってことよね」 「はい、お父さんはお母さんが亡くなってから変わってしまったので」 「でもその時にペンはいなかったでしょ」 「あっ」 その時のミナの家では犬を飼っていなかった。 ペンがいないと八神は現れられない。だから 10年前には戻れないのだった。 「しかもね、あなたのお父さんが煙草を吸い過ぎて、側にいたお母さんの肺が病気になっちゃったのよ。10年前なら、もう充分に煙草の煙を吸ってしまっていて、その時にお父さんが煙草を止めたとしても結果は一緒よ。そしてその責任を感じたお父さんが自分を責めて心が壊れてしまうのは、やっぱり変わらないわ」 ミナはがっくりと肩を落とした。淡い期待がシャボン玉のように音もなく消えた。 「だから15年前に戻ればいいのよ」 「15年前?」 ペンがクウンと言った。 「15年前に転校して来た子がいたでしょ?」 「えっ・・・・サキちゃん?」 「そう。サキの家に犬がいたでしょ?」 転校して来たサキはミナの隣の席になって、すぐに仲よくなった。サキの家にも遊びに行った。 「名前は・・・・リーちゃん!」 「サキはそう呼んでたけど本当の名前はローリーだったのよ。私が名前をつけたの。サキは私の娘だったのよ。」 「ええっ!」 そう言われればなんとなく見覚えがある。 サキのお母さんだ。 15年前、ミナの母は体調を崩して入院していた。ミナは母の着替えを持って父と一緒に病院に行った。 「川の道を行こうよ」 ミナは川沿いの土手の道が好きだった。空が広くて空気が綺麗な気がした。家では父がいつも煙草を吸っていてあの煙の臭いが苦手だった。 向こうからサキがローリーと一緒に歩いて来た。後からサキの母もついて来ている。 「ミナちゃ〜ん」 サキがローリーと走って来た。 ミナの父がしゃがんでローリーを迎えるポーズを取ると、ローリーはグルルッと唸って威嚇態勢で構えている。慌ててサキの母が駆け寄った。 「すみません、ごめんなさい。ローリー、どうしたの?いつもは大人しい子なんですけど。あっ、ミナちゃんのお父さん?はじめまして。サキの母です。いつもサキと仲良くして頂いてありがとうございます」 「はじめまして。ミナがいつもお世話になってます。ワンちゃんに嫌われちゃったかな」 ローリーの目は敵意剥き出しでじっと身構えている。 ポチャン 川面で魚が跳ねた。その瞬間、ミナの父はこの先の15年を経験した。自分の煙草のせいで妻が亡くなり、自身も病んでミナの重荷になっていた。そして15年前の今に戻って、サキの母に選択を迫られていた。 「煙草止めます。」 迷うことはなかった。妻とミナが自分のせいで不幸になるなんていうのは耐え難いことだった。 サキの母はにっこりと会釈をした。ローリーは身体を緩めてゆっくりと尻尾を振っている。 目から敵意が消えて優しい顔になっていた。 「サキちゃんのお母さんと何話してたの?」 川の向こうの低い空に月が出ていた。 注意深く見ないと見つけられないくらいの薄く透けた月だった。 「月が綺麗ですねって言ってたんだ」 「えっ?お月様?どこ?」 父が指差した先にあった。 「サキちゃん知ってるかな?」 振り返ったミナは大きな声で叫んだ。 「サキちゃ〜ん、お月様〜」 サキが振り返って何か言ったけどローリーがワンッと吠えたので聴き取れなかった。 ミナの母は見る見るうちに元気になって退院した。 15年後。 ミナは引っ越し準備に忙しかった。 ミナがペンと散歩中に、売りに出ている中古の家を見つけたのだった。父も母も一目で気に入って購入を決めた。三人と一匹には充分過ぎる広さだった。 父は部長に昇進して社内の完全禁煙化を推進していた。 引っ越し先の掃除に行っていた母は、隣りの大きな家の奥さんが親切に色々教えてくれたと興奮気味にミナに話した。 ペンは尻尾をゆっくりと振っていた。
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