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午前、午後とほぼ一日をかけて三年生の健康診断を終えた鷹哉は、外来用の玄関から健診のために来訪していた医療スタッフを丁重に見送ってから、一旦保健室へと戻った。
室内の壁時計の長い針が、数字の四を過ぎたあたりを指している。
その針が六のところまで移動すれば、今日の鷹哉の勤務時間は終わりだ。
戸締りのため、カーテンに隠さていたベッドを一つひとつ念のために、すべて見まわりをする。
誰も寝ていないことを確認して、鷹哉は開け放たれた大きな窓の前に立った。
つい今しがたまで大勢の生徒が健診で出入りしていたせいもあり、熱気がこもった室内の空気を入れ替えるためにも、一日中窓を全開にしていたのだ。
引き戸に手を掛けた瞬間、風に乗って新緑の匂いが鷹哉の鼻腔へ届く。
瞬間、どっと一日の疲れが出たような思いがした。
正確にいうと、昨夜から持ち越した疲れもだ。
「今日は疲れた一日だったな」
魔が差すということはこういう瞬間のことなのだろう。
いつもであれば絶対にしない、一番手前にあったベッドに寝転ぶ。
もちろん今日は、一日がかりで三年生の男子が健診をやっていたこともあり、保健室内のこのベッドには来訪者がいないことは確認済みだ。
白衣のままで横になったら、どちらも皺ができそうだなあ……なんて考えながらも、自然と瞼が落ちていく。
薬品の匂いがリネンに沁みついていることなど、眠気が勝って気にならない。
昨夜、セフレから一方的に関係の終わりを告げられたせいで、鷹哉は一睡もできなかったのだ。
「……あーあ。お前とは身体だけだって、いつも俺のほうがアイツに言ってた口癖なのに、別れを切り出された途端、気持ちを残していたのは俺のほうだったことに気がつくとか惨めすぎる」
枕に顔を埋め、鷹哉は大きなためいきをついた。
こういうとき、一階に生徒の教室や職員室がなくてよかったなと心から思う。
いや、「こういうとき」自体、この五年間で一度もなかったけれど。
というか、ひとりのセフレと三年も続くとは思わなかった。
相手をひとりだけに限定して、心を砕くなんて、移り気の多い鷹哉にはとうてい無理なことだとずっと思っていたから。
だからこそ昨夜、鷹哉にはバチがあったのだと思った。
上半身の筋肉が好みであった二歳年上のエリート商社マンのセフレとのやり取りを思い出し、今頃になって涙が滲んでくる。
「へえ、我が校の保健の先生は、不良教師だったんだ?」
途端、頭上から聞き覚えのある低い声が降ってきた。
「……誰だ?」
咄嗟に顔を上げた鷹哉の背に、ふわりと上質なシトラスが流れてくる。
すぐさま背後に立つ人物が誰なのか分かった鷹哉は、あ、とそのままの姿勢で固唾を呑んだ。
すると、硬く薄いベッドがぎしっと揺れた。
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