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「今日、調子悪いんじゃねえの? 無理すんなよ」
男子学生は言うなり、鷹哉の手の上に自身の手を重ねると、強引にウエストの計測を自己流で始めた。
「ほら、今のうちに記録しねえと後の生徒たちが渋滞しちまうぞ?」
促されて、めずらしく鷹哉は「……ありがとうございます」小声で礼を告げる。
プライドの高い女王様気質である鷹哉としては、生徒に礼を言うなど非常にめずらしいことだった。
簡易テーブルに置いてあった鉛筆を手にし、問診票に素早く数値を記入していく。その際、自然と問診票の名前が視界に入った。
――三年五組、雨宮大河(あまみやたいが)。
はじめて見る名前だった。
いや、この学校の生徒なんて誰ひとりとして知らない。
覚えたところで、鷹哉にはなんの得にもならないからだ。
「じゃあな、先生。保健の先生が体調管理できてねぇって、外野はあれこれ言うかもしれねぇけど、先生も人間だからな。無理すんなよ」
鷹哉が書き終わるや否や大河は、問診票を目の前から攫うように奪い、年相応にはにかんだ幼い笑顔とともにテントから出ていった。
「さんねんごくみ、あまみや、たいが……」
呪文を唱えるようにつぶやいたあとで、外で待機していた生徒が入れ替わりで入ってくる。
「先生、どうしたんですか?」
訝しむような若い声が、鉛筆片手に惚けていた鷹哉を咎める。
「あ、すまないな」
次いで現れた男子生徒の裸の上半身もそれなりに鍛えあげられてはいたが、ときめきどころか、なんの感情も抱けない。
話にならないな。
それどころか、必要以上に噴射したであろう制汗スプレーの匂いが不快だ。
「というかキミ、制汗剤を身体中にスプレーしすぎてないか? 匂いが強すぎる気がするんだが」
あからさまに苦言を呈するように、鷹哉は言い放った。
これでこそ、いつもの鷹哉だ。
すると生徒も言い訳がましく、眉をひそめてくる。
「だって先生、俺いつも汗くさいから大量にスプレーを身体中に吹きかけておかないと、女子に嫌われちゃうだろ?」
まったく幼稚すぎる思考だ。
香りはそんなふうにまとうものではない。
呆れ顔でため息をついた鷹哉は、やっぱり生徒のことは自分のあずかり知らぬ世界のことだと鼻白む。
「そう。だったら周囲に迷惑を掛けない程度にしておけよ。今は、スメルハラスメントなんて言葉も存在するくらいだからな」
鷹哉の言葉に生徒は、げえっと大仰に顔をしかめる。
オーバーリアクションが面倒くさい。
瞬時にそう思った鷹哉は、やはり先ほどの雨宮大河のこともなにかの間違いではないか。
手際よくウエストをメジャーで測りながら、鷹哉はそう思った。
「はい、終わり。次の人へ声を掛けて」
冷めた口調で退室を促す。
「先生、冷たい」
鬱陶しい口調で言われたが、鷹哉は聞く耳を持たない。完全無視だ。
興味がないものに、必要以上の優しさなんて持ち合わせるほど鷹哉は優しくなんてない。
我ながら性格が悪いなあと自覚はある。
けれど、それでいい。
煩わしい感情に振り回されたくないのだ。
なんとなく肩を落としながらテントを後にする生徒の後ろ姿に、鷹哉はきっと雨宮大河だって、この生徒のように二度と校内で逢うことはないだろう。そう思ったが、鷹哉の胸にはなんとなく物悲しさと安堵が入り混じった、よく分からない感情が底のほうで暗く渦巻いていた。
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