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視界の先には簡単なイラストと擦れた黒いインクが広がっている。
安っぽいイラストキャラクターの吹き出しには英文を訳すために必要なヒントが書かれているが、まったく頭に入らない。
「もう帰っていい?」
「だめです。まだ一ページも終わってないじゃないですか」
図書館の二階にある自習室は、受験を控えた中学生が多く利用し静観した空気の中では僕は異端だろう。窓の外には青々とした桜の木が風で揺れている。るり子は集中力が切れた僕の肩を叩いてささやいた。
「しっかりしてください、あなたのお母さんにあなたの宿題の面倒を頼まれている私の沽券に関わります」
「いつどこでどうやってお母さんがるり子にそんなことを頼んだんだよ」
「夏休みが始まってすぐです。Do you understand?」
「余計なことを」
机の半数以上が受験生で埋まっているからか、物音を立てた僕たちに時折するどい視線を浴びせて来る。運動をして熱気があるわけでもないのに彼らの身体の内から湯気のようなオーラが出ているのが分かってしまう。もっと恐ろしいのは数年後の自分を見ているようで気持ちが萎えるのだ。
お母さんは人並みの高校に進学してくれればそこから働こうが進学しようが構わないというスタンスで勉強に関しては厳しくいってこなかったが、お父さんが死んじゃってからは宿題や成績をしつこくチェックするようになった。きっとお父さんの代わりをしてくれてるんだろうなと思って頑張ろうとはするのだが、やっぱり力がでない。まるで頑張ることを身体が拒否しているようだ。
となりの席のるり子の鉛筆は先ほどから止まることを知らない。彼女の長いまつ毛を眺めていると鉛筆を止め呆れたようにこちらを向いた。
「絶対に見せませんよ」
開かれたページは算数の計算問題で方程式ばかりだ。
『私は数字が好きです。だってこの社会で一番確かで信用できるんですもの』
そう言っていたるり子は隠れて中学生で習う数学の問題を解き始めていることも僕は知っていた。
『数字と文字が同じ式に入ってるなんておかしくない? なんでもありって感じで嫌だな』
僕にとっては至極真っ当な意見だったが、るり子にしては詭弁も詭弁で鼻で笑われた。
「頼むよちょっとだけで良いから」
「だーめ」
まぁそうだろうな。こういう場合は交換条件を出せばいいのだが、勉強面でるり子に僕から渡せる知識がない。
「たかちゃんは基本的におバカさんなんですから、ちょっとでも点数が取れる可能性がある国語をまずは頑張ればよいのでは?」
るり子は夏休みの友を僕からひったくって国語のページを開く。漢字の読み書きなら苦ではないが長文読解は面白くないから嫌いだった。
「それじゃ一時間後に答え合わせをしましょう。それまで私語厳禁です。みなさんのご迷惑になりますので、私はあっちの席に座ってますね」
よーいスタートと言いたげにるり子は席を立つ。僕は少しだけ長くなった前髪を触りながらようやくこぎつけた図書館デートがまさかこんな展開になるなんてと絶望しながら問題に取り組んだ。
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