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そこからは本当に回復が早かった。
リノは何かにつけ意思表示をしたがったので、俺はリノに手持ち鐘を持たせてみた。リノはカランと鐘を鳴らすと俺が反応してリノに寄ってくるのを楽しんでいた。赤子のようでちょっと面白かったが、そのうち「ご飯」「早くしろ」「あっち行け」「こっちに来い」「眠い」など全てを鐘の音で解決しようとし、俺が察せないと不機嫌になるので大変だった。
「リノちゃん、そろそろ喉治して喋ろうとか思わない?」
俺がそう尋ねても、返ってくるのは鐘の音ひとつ。今は仕方ないか、と俺は諦めた。もう少し会話できないことの不便さが身に沁みればきっと、またあの可愛らしい声が聞けるだろう。
リノは拡張現実上の俺の端末に興味を示し、暫くパチパチと打鍵していたかと思うと、急に指を早めた。体が何かを覚えていたのだろうか。俺は画面を自分の視界に共有した。何の数列だ、これは……と、暫く眺めて思い当たる。円周率だ。何でこんな記憶を生き延びさせて、人間らしさの記憶を失わせたのか。俺は運命を恨んだが、当のリノは一心不乱に打ち込んでいる。楽しめているなら良いか、と俺は放置することにした。課題なら、こいつが寝た後にやればいいし。
リノが寝た後に端末を開いた俺は、後回しにしていた数学の課題が全部リノによって勝手に終えられていたのを見て目を剥いた。
リノは自分の体にも興味を持ったようだった。鏡を見て、俺を見る。俺は短い茶髪だし、十六歳にしては大柄だし、長い金髪で華奢で薄幸そうな美少女と言えなくもない十四歳のリノとは全く見た目が違う。別の生き物だと思われても仕方ないくらいだ。少なくとも叔父と甥の関係だとは、血が繋がっているとは到底思えない。
リノが鏡から離れ、俺にずいと近寄る。不思議そうに見上げてくるので何だろうと俯くと、ぐいと顎を押し上げられた。喉を、確認しているのか。
「俺には傷はないぞ。リノの傷はリノが付けたんだ。覚えてないか?」
いや、不用意に思い出させるようなことを言うべきではなかったか。口にしてからしまったと思ったが、もう遅い。リノは暫く自分の喉に手を当てて考え込んでいたが、興味を失ったのか、自分の端末を開いて作業を始めた。
俺はこっそり安堵した。今リノが触っているのは、俺の端末を弄らせないように、モルガンが用意した彼のお下がりだ。本来のリノのものを琥珀宮から持って来させることも出来るが、今はまだその時ではない。そこには、リノ・ライノと認められずに死を選んだ、それまでの彼の全てが詰まっているだろう。そんなもの、今の彼には劇薬に違いないのだから。
三つ子の魂百までとは聞くが、一度死んでも魂の色までは変えられないらしい。リノはあっという間に義務教育の再履修を終え(勿論俺の範囲もまた追い抜かれた。記憶を失う前にも一度既に抜かれているのだ、今更驚かない)、ナノ技──『ナノマシン技術』という、創刊六十周年を迎えてなお毎月発行されている最もポピュラーな専門雑誌──のバックナンバーを読み始めた。俺はなるべく古いものから読むように教えた。歴史を紐解いて車輪の再発明をしないようにしろという名目だったが、その実、ナノ技でも当然大きく記事になったリノ・カミナリノの名前が再び彼を襲うまでの時間を、なるべく先延ばしにしようと画策してのことだった。
リノはもう、モルガンの患者ではない。声こそ出ないが、こいつはもう元のリノに殆ど遜色ない状態に回復している。居場所こそ手術室の隣にある処置室のままだったが、そこはモルガンの計らいでリノと俺の作業部屋にしてもらっていた。リノを琥珀宮に帰すつもりは俺もモルガンも毛頭無かったし、俺自身も今はリノの傍に居たかった。
記憶は、植え付けなければ戻らない。喉の傷は、大きな傷跡を残したまま塞がった。いつリノが自分の傷の意味を知り、そしてその時どういう選択をするのか。俺はその瞬間に、絶対に立ち会わなければならない。そうしないときっと後悔する。もしリノがまた死を選ぶとしたら、こんな奇跡は、二度とは起こらない予感がしていた。
ある時から、リノはナノ技を読むことを止めた。もう全部読み終わったのか?しかしそれならば、リノ・カミナリノの記事を読んだ筈だ。自分のことだと、気付いた筈だ。まさか、見落とした?いや、単にインプットに飽きたと考えるのが妥当だろう。
ナノ技を読んでいると、自分も手を動かしたくなるものだ。残念ながら学校の勉強だけで手一杯な俺にはそんな余裕はないが、リノは脳を損傷しても相変わらず天才だった。モルガンは彼自身も腕のいいナノマシン技師だ、脳細胞補完モジュールの機能を十全に引き出せたのだろう。
普段モルガンは地下一階で懐古趣味なバーを開いているが、そっちは完全な趣味で、来る客だって大抵酒の味よりもモルガンのナノマシン技師としての腕を頼って来る者ばかりだった。いや、酒の味がどうかは俺は知らないけど。知らないということに、なっているけれど。リノの手術の時に飲んだ茶は、何だか鼻にツンときたな、とは思う。あれには正直助かったので、何の茶だったかは大人になるまで聞かないでおこうと心に決めている。
リノは今日も何やら熱心に作業している。こんな時に話し掛けると、以前はめちゃくちゃ叱られた。今はもう、話し掛けない。打てば響くような返答が得られないと分かっているからだ。まだ声変わりも終わっていない少年の、少し低めの女性のような声。もう一度聞きたいのだが、早く喉を治す気になってくれないだろうか。
じっとリノを眺めていると、俺の端末にチャットが届いた。
『何?』
リノからだ。話し掛けてもいないのに俺を気にしてくれていたとは。やっぱり、前のリノとは少し違うのかもしれない。
『いや、頑張ってるなーと思って。何してんの?』
『モジュール作ってみようと思って。僕専用のやつ』
『リノ専用?公開しないってことか?』
『公開とか別に良いよ…僕が便利ならそれで』
『ふーん。ま、いいんじゃないか。応援してる』
俺はそこに、俺特製のリノちゃんスタンプを添えて送信した。可愛らしくデフォルメされたリノがファイト!と拳を振り上げている絵だ。
『そのスタンプやめろ、不愉快』
反応は記憶を失う前と変わらず辛辣だった。俺は思わずくつくつとニヤついてしまった。
しかし、自分が作製したモジュールを公開する承認欲求が無いということは、やはりまだ、あの記事は読んでいないのだろう。俺ははっきりと安堵した。できればもうこのままずっとリノと二人で、この作業部屋に篭っていたかった。
リノは十五歳になり、俺は十七歳になった。日もそんなに離れていないので、二人分のささやかな誕生日パーティをモルガンが準備してくれた。王宮にいた頃には考えられない、小さな小さな、そして十分過ぎるくらい幸せなパーティだった。来年もここでやろうな、と俺が言うと、リノは珍しく素直に頷き、モルガンは鼻で笑って煙草に火をつけた。
俺も、分かっている。いつか覚める夢だと。リノは天才なのだ。今は自分のためだけのモジュールを作って満足しているようだが、そのうちまた、あいつのことを意識しだす。そしてきっと繰り返す。あいつは不滅だから。あいつは時間が解決してくれない存在だから。
『出来たから、試させて』
リノからチャットが来る。リノ専用モジュールなのに俺で試すとはどういうことだ?疑問だったが、返信はすぐに打った。
『いいよ』
するとリノが席を立ち、俺の椅子の前に立った。デスクに行儀悪く腰掛け、俺を見つめる。カラン、と鐘が鳴って……
「……クリス」
声が、した。
俺の名を呼ぶ、声がした。
その声色は確かに、リノ本人のもので。
しかし耳からではなく、俺の聴覚拡張モジュールに。
直接届く、合成音声だった。
「……リノ、お前……」
「お、届いたみたいだね良かった反応遅いから失敗したのかと思ったよ焦らせんなよなもし失敗してたら僕がただ意味深にお前見つめに来ただけの変な奴になるとこだったじゃねぇかそれより僕だって分かったってことは声のシミュレーションも上手くいったってことかな多少記憶に残ってた自分の声再現してみたけど自分に聞こえる声と他人に聞こえる声って違うって言うからさ」
「うるさっ!」
耳に届く怒涛のリノボイスに、俺は思わず音を上げた。
「怒んなよー、ちょっとびっくりしただけだってばー」
俺は無言で自分の席まで戻ってしまったリノに追いすがりながら弁明した。リノは暫く端末を弄っていたが、俺のしつこさに観念したのかヘッドセットを外してこちらを向いた。
「…別に怒ってなんかねーよ。ほら、これで普通のペースの会話だろ」
「お、うん、さっきと違っていつものリノの感じ」
「よし。ちょっと出力制限掛けたんだ。僕の思考垂れ流しだと耳で聞くには速すぎるみたいだから、ちゃんとお前と会話になるようにね。ちなみに、この発話の出力は僕がお前から目を逸らした時点で既に終わってる。結構効率良いな、これ」
「え!?それって一瞬じゃん…そんなぁ、俺との会話は話半分ってわけ?」
「話半分どころか四分の一かな…やめろ!つつくな!引っ張んな!」
「面白え…リノの脳内リソースをどれだけ占有できるかチャレンジ」
「下らないことすんじゃねえよ!」
リノが怒って立ち上がり逃げ出す。俺はリノに近付いては追い払われ、の遊びを久々に、存分に楽しんだ。ふい、と唐突にリノが俺から視線を外す。隙ありと延ばした右手を掴まれ、リノはそれを喉元に持っていった。怯えた俺はその手を引っ込めようとしたが、リノに睨まれて動けなくなった。
「…ナノ技の記事、読んだよ。僕を生かしたのは、お前だな?クリス」
突然の糾弾に、俺は情けなくも、膝から崩れ落ちた。
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