修羅場

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 ああ、ほんとうに。ああならなくてほんとうによかった。  いやいやいや、自分だけじゃない。美季も茜もだ。やがて渋谷と妻は、むかえにきた重役の誰かの秘書につれられてエレベーターに乗っていった。重役室に呼ばれたんだろうな。  どうなるんだろうな。どうするんだろうな。 「はい! 行きますよ」  馬場にポン! と背中をたたかれた。 「あっ。うん」  呪縛の溶けたロビーの中を人々はようやく動き出した。上野と馬場もその中を歩き出しエレベーターの前に立った。  上野は呆然としていた。  不倫相手ってけっきょく一人で放り出されるんだな。渋谷は妻に付ききりだった。呼べと叫べど恵比寿に顔を向けることはなかった。だからこそ、恵比寿は「自分のほうが愛されているのだ」と叫ぶほかなかったのだ。  あわれだ。  恵比寿は惨めに見捨てられたのだ。背筋が凍る。  もし、あれが美季だったら。茜だったら。つくづく踏み外さなくてよかったと思った。美季にあんなマネをさせることにならなくてよかった。茜を見捨てることにならなくてよかった。 「左遷だよなぁ」 「でしょうね」  あんな修羅場を目の当たりにして、さすがの馬場も声が小さい。  約束されたエリート街道からはずれ、それどころか本社に残された道はあるのか。渋谷夫婦に未来はあるのか。子どもだってまだ幼いはず。  離婚となったら慰謝料やら養育費やらも払うんだろう。離婚するにしろしないにしろ、社内でどんな立場に追いやられたとしても、簡単には辞められないだろうな。金はかかる。どこへ転勤したとしても、不義理な男としての噂はつきまとうだろうし。女子社員からは軽蔑されるだろうし。取引先からも白い目で見られるだろうし。  うわ、きっつい。血、吐きそう。  自分もつい先だって、そっち側に堕ちそうになった身としては、いささか同情もするが。渋谷も「魔が差した」んだろうか。代償の大きさに比べたら「魔が差した」ということばは少々軽い気がする。  多少の後ろめたさを含んだときめき程度が、平凡な日常のちょうどいいスパイスなのだと思った方がいい。決してその先を望んではいけない。 「よかったですね」  ぽつりと馬場がいった。 「なにが」 「ああいうふうにならなくて、ですよ」  いわれなくてもわかっている。 「今、身に染みているところだよ」  ふふっと馬場が笑った。 「なんで、したり顔なんだよ」 「いえいえ、安心しているんですよ」  とはいっても、それ見たことか。と顔に書いてある。 「おかげさまで」  クシャッとしかめっ面をしてやった。  ロビーの真ん中に、片方のハイヒールが誰にも拾われないまま転がっていた。       fin.
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