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「久しぶりじゃねえか、レイメイ」
男の人は意外と粗い口調でそう言った。
男の人の藍色の目は笑うとすっと細くなって、まるで眠る直前のネコみたいだ。目と同じ深い海の色の髪の毛を、顔の横で色とりどりの装飾と一緒に編み込んでいる。
レイより少し小さいくらいの長身はすらりとしていて、隣に立つレイの筋肉質な体と比べると随分華奢だ。
「はは、いつの間に氷削士に鞍替えしたのかね。こんなに
可愛い坊ちゃんまで連れてよ」
「俺は便利屋だって何回も言ったろ。明日には街に戻ってまた地質調査だ。こ
いつは馴染みの診療所のガキンチョで、俺の手伝いをしてくれてる」
レイはよっぽどこの男の人のことが気に食わないのか、今すぐに帰れとでも言いたそうな不満気な顔で言う。
けれど当の男の人はどこ吹く風で、心底楽しそうに笑いながら「お手々繋いで随分仲良しじゃねえか」とからかう。
苛立った表情から一転して気まずそうな顔になったレイがパッと僕の手を放す。口では言わないけれど、恥ずかしかったらしい。助けを求めるようにちらっと僕の顔を見る。
何か喋らなければと僕は慌てて口を開いた。
「フィロです。……えーと、さっき僕が転んだので、手を繋いでもらってました。だからその、からかわないで……」
僕が恥ずかしさでいっぱいになりながら一生懸命言葉を絞り出すと、男の人は更に笑い転げてしまった。
中性的な女の人みたいな綺麗な見た目なのに、笑い方はわははははと豪快で男っぽい。
「もういいだろ。で、何の用だ」
レイは何事もなかったかのように話を変えたけれど、さっぱりした短い髪の間から覗く耳元が赤く染まってている。やっぱり少し照れ臭かったらしい。
「お前がこの辺に来てるって風の噂で聞いたからさ。挨拶ついでに同郷のよしみで宿を貸してもらおうかと思ってね」
男の人は飄々とそう言ったけれど、不意に僕の顔を見て、意味ありげにウィンクして見せた。
「しかし、この様子を見ると俺はお邪魔かね」
僕は今度こそ真っ赤になってレイから後ずさった。
男の人はその様子を楽し気に眺めている。
「い、いいよ! 別に邪魔なんかじゃないから、泊まっていきなよ!」
「おや、いいのかい。坊ちゃんは優しいね」
「いいってば! ね、レイも良いでしょ!」
するとレイはため息を吐いて「好きにしろよ」と言った。それから「小狡い手を使いやがって」とも。
男の人は特に気にした素振りもなくにこにこ笑っている。
「よく見りゃ坊ちゃん、全身泥だらけじゃねえか。早く上着脱いで火に当たりな。風邪引いちまう」
そう言って手招きされ、僕は男の人の隣に腰を下ろした。びちゃびちゃに濡れた上着を脱いで焚き火に当たる。
男の人からは薬草のような仄かに煙たいような不思議な匂いがするけれど、何の匂いかまではわからない。
「……宿代は貰うからな」
レイは物凄く嫌そうな顔をしながら、もう夕飯の準備を始めている。テントの奥から引っ張り出した小鍋と調理台を火にかけ、さっき採った氷水晶を一つ放り込んだ。
こうして仕事がある日の食事当番は決まってレイだ。
ざっくばらんな口調に反して料理や物作りといった細やかな作業が好きなレイは、道具を火にかけて料理の仕度をしている時が一番いきいきしている気がする。
「レイ、今日のご飯は?」
「残り野菜を切ってぶちこんで煮る。具材がもうあんまりねえから、明日家に帰るついでに買って帰るぞ」
レイはいかにも大したことないという口調でそう言ったが、僕はレイの料理はシンプルな方がより美味しいと思う。だから久しぶりにスープ料理と聞いて早くも胸が躍った。
一定以上の高温に晒されると液体になるという性質を持つ氷水晶は、ぱちぱちじゅわじゅわと弾けるような音を立てて鍋底で跳ね始めた。僕はそれを眺めながら「ねえ」と隣に座る男の人に声をかける。
「さっき呼んでたレイメイって、レイの名前?」
すると男の人は驚いたように軽く目を見開いた。
「おやおや、知らなかったのかい。あいつの真名だよ」
「マナ……?」
「本当の名前さ。俺達巨人族は外向きに使う仮の名前と、身内に使う本当の名前があるんだよ」
男の人がそこまで説明すると、それまでナイフで葉物野菜を切っていたレイが険のある視線でこちらを睨んだ。
レイは普段から怒ってるみたいに目付きが鋭いけれど、今はその比じゃない。まるで研がれた刃物みたいだ。
「どういうつもりだ。他種族に真名を明け渡すなんざ……」
「いいじゃねえか。この子はお前さんの身内だろ?」
しかし男の人はその視線を笑って軽くいなした。レイはふいと顔を逸らし、また黙って野菜を切り始める。
僕はレイが「身内」という言葉を否定しなかったことに、何か許されたような気分になって、更に質問を重ねた。
「本当の名前があるなら、どうして別の名前を使うの?」
すると男の人の表情が僅かに翳った。困ったように目を伏せて笑いながら、色の塗られた爪で右の頬を掻く。
「……さて、どこから話したもんかね……」
男の人が首を傾げると、長い髪がさらさらと揺れた。
「……坊ちゃん、俺達巨人族が大昔に人間に作られた種族だってのは知ってるかい?」
僕は学校で習った知識を頭の中で照らし合わせながら、小さく「うん」と呟いた。
たしか大昔に人間が戦争をし始めるまでは、世界に他の種族はいなかった。けれど戦争が激化し、人手不足が深刻化するようになってくると、人間は戦うための兵力として、
巨人族や獣人族や人魚族といった、亜人種と呼ばれる他の種族を次々と生み出した。
巨人族は力が強くて魔術への適性も高い。獣人族は他のどの種族よりも身体能力と五感が優れている。下半身が魚の人魚族は、海を渡る敵を沈めることに長けている。
戦争は泥沼化し、やっと終わった頃には亜人種は人間の手が付けられないほどに増えてしまった。
冒険者や騎士団の多くを巨人族や獣人族が占めるようになり、市場に出回る魚介類はほとんど人魚族が採ったもの。
他種族に比べてこれといった強みを持たない人間は、世界の中心から少しずつ隅に追いやられていった。
すると人間は仲間内で争うことをやめ、今度は協力して亜人種を弾圧するようになったのだ。
「ひでぇ戦争だったと聞くよ。亜人と見たら男も女も嬲り殺しさ。運良く生き延びたところで、巨人は奴隷、獣人はペット、粒揃いだって評判の人魚は慰み者だってな」
男の人は焚火を見つめながら、呟くように言う。
長い時間をかけて、巨人族は山奥へ、獣人族は湿原へ、人魚族は海へと逃れた。人間に狩られないために。
しかし近年は亜人種にも人権が必要だという声が高まったことや故郷から出稼ぎに来る亜人種も増えたことにより、年々亜人種の地位は向上しているという。
それが今の、僕達が住む他種族混合国家だとか。
「そんで、なんだったか……名前の話だったな。俺達の間じゃ人間に真名──本当の名前を知られると支配されるっていう古い言い伝えがあるのさ。もちろん、そんな魔法は今じゃもう残っちゃいないがね……」
それでも、俺達はまだ恐ろしくてたまらないんだよ。
男の人はささやくようにそう言って締めくくった。
暗闇の中にぱちぱちと焚き火の爆ぜる音だけが響く。
「……そっか……教えてくれてありがとう」
僕はゆっくりと噛みしめるようにそう言った。
「いや、礼には及ばんさ。坊ちゃんは賢いね」
男の人は優しく微笑みかけてくれたが、辛気臭いのは嫌だとばかりに、すぐにぱっと表情を切り替えた。
そして今度は塩漬けのブロック肉を切っている最中のレイに向かって、悪戯っぽく笑いながら「おーい、飯はまだかね」なんてからかうように呼び掛けている。
「今用意してんのが見えねえのか。大人しく待ってろ」
「おお怖い。坊ちゃん、普段虐められてやしないかい」
どうやら男の人の方がレイより一枚上手みたいだ。
普段余裕なレイがこうして困っていたり、むきになっている様子を見るのは新鮮でちょっと面白い。
「ねえ、あなたの名前を聞いていい?」
「ん? ああ、そういや名乗ってなかったね。俺はアズマ。外向きにはセトって名乗ってる」
「本当の名前を僕なんかに教えちゃっていいの?」
「もちろんさ。坊ちゃんはいい子だろ」
大人の男の人から「いい子」なんて子どもみたいに褒められるのは初めてだ。慣れない響きで首筋がくすぐったい。
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