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「俺達は文字を持たない種族だが、真名だけは別でね。今じゃもう使われてない古い言葉を形にして残すんだ」
アズマはそう言うと、傍らにある薪の山から、細い木の枝を一本引き抜いて雪の上に文字を書き始めた。
「ほら、こうやって書くんだよ」
雪の上には「東」と見たこともない文字が刻まれていた。アズマという三つの音に対して、雪の上の文字は一つだ。これは一文字で三つの音を読むということなんだろうか。
「あいつの名前は……たしかこうだったな。レイメイ」
僕が食い入るようにアズマの指の動きを見つめていると、アズマは照れ臭そうに笑いながら、今度はゆっくりと時間をかけて雪原に「黎明」と二つの文字を書く。
「夜明けって意味だ。……いい名前だろ」
「うん。……すごく、綺麗だね」
僕は素直に頷いた。普段当たり前に呼んでいた名前に、そんな意味があるなんて知らなかった。
すると、いつからか話を盗み聞きしていた様子のレイが居心地悪そうに身じろぎをした。
「おい、何勝手に教えてんだ」
言葉は尖っているけれど声は怒っていない。ただすごく照れているだけのようだ。
僕とアズマが顔を見合わせて笑うと、レイは舌打ちしてそっぽを向いた。
いつの間にか小鍋では屑野菜と塩漬け肉が一緒に煮込まれた薄い金色のスープがくつくつと煮えている。
レイはそこに小さな布の袋から取り出した乾燥豆を放り込み、蓋をして更に煮込み始めた。傍らには既に切り分けられた堅パンとチーズがお皿に並べられている。
思わずぐうとお腹が鳴りそうになるのを我慢しながら、僕はアズマにさっきから気になっていたことを聞いた。
「巨人族が文字を持たないのも、人間に支配されるから?」
「そうさ。俺達は基本的に、人間の魔術を使った命令には逆らえないからね。自分が受ける命令を一つでも減らすためには、字が読めない方が都合良かったんだろうよ。昔は耳を潰しちまう巨人族も多かったって聞くぜ」
「耳まで……」
僕は自分で自分の耳を潰してしまう人々の姿を想像してぞっとした。肌着越しに二の腕にさぁっと淡い鳥肌が立つのを感じながら、更に質問を重ねる。
「じゃあさ、人間に名前を読まれたら困るのに、名前だけ文字に残しておくのはどうして?」
「お、良い質問だね。それは古い魔術の都合でね。昔の人間が俺達を支配するには、俺達の名前を掌握する必要があったのさ。だから当時の巨人族にとっちゃ、名前を知られるっていうのは命を握られるのと同じことだったんだよ。だが、本当の名前さえあれば話は別さ。真名さえ知られなければ俺達は支配から逃れられる。古い文字にしたのも簡単に読まれないためさ。つまり、俺達にとって真名っていうのは、魔除けのまじないみたいなもんなんだよ」
アズマはそこまで言い終えると、ふうと一息ついた。
「はは、慣れないことを喋ると疲れるもんだね」
僕はびっくりして何も話せずにいた。アズマもレイも、そんなに大事な名前を、僕なんかに預けてくれたのか。
するとアズマは僕の顔を覗き込んで小さく苦笑した。
「坊ちゃんにはちょっとばかし刺激が強かったかね」
「ううん、大丈夫。平気だよ」
僕は強がって首を横に振った。けれど本当は基礎学校で習わなかったようなことばかり知ってしまったせいか、心臓がばくばくとうるさく鳴っている。
それを察したのか、さっきまで無言でスープの入った小鍋をかき回していたレイが僕達に声をかけた。
「おい、そろそろ飯にするぞ」
「お、やっとかい。待ってたよ」
アズマが軽口を叩きながら身を乗り出す。
レイは堅パンとチーズを載せたお皿を配りながら、僕に「フィロ、テントから器三つ出してくれ」と言った。
「うん、わかった」
僕は急いでテントに向かうと、レイの大きな鞄に入っている木の器を三つ取り出して、二人のもとへ戻った。そのまま調理台の上温かい湯気を立てているスープを三人分、こぼさないように慎重に注ぎ分ける。
「はいアズマ。つまみ食いしてるのバレてるからね」
「はは、バレちまったか。ありがとさん」
「はいレイ。ほっぺのところに野菜屑がついてるよ」
「ん。指やけどすんなよ」
二人にスープを配り終えると、僕も焚き火の近くに座って「いただきます」と手を合わせた。
さっそく薄い金色のスープを一匙飲む。見た目の通り、あっさりした塩味のスープだ。薄い金色の水面には、豆やコロ豚の塩漬け肉から染み出した油が揺れている。
じんわりと優しい味のスープをたっぷり吸って膨らんだ緑豆はほくほくと柔らかくて、大きめに切られた塩漬け肉は口の中でほろほろと簡単に崩れていく。柔らかくなるまで煮込まれた葉物野菜も甘くて美味しい。
「美味しいよ、レイ」
ラト山羊のチーズを載せた堅パンをもぐもぐと口に入れたままそう言うと、レイは「わかったから、落ち着け」と笑いながら僕の頭をぽんと軽く叩いた。
「やっぱり、お前の作る飯はうまいね」
アズマはあつあつのスープにパンとチーズを一緒くたに沈めてパン粥のようにして食べている。
「故郷じゃお前の作る料理が一番だった」
アズマはすっかり柔らかくなったとろとろの堅パンを、木の匙で掬って食べながらしみじみと言った。
「お前の作る料理は不味かったな。やれ薬草だなんだって変な雑草ばっかり入れやがって」
レイは焚き火で軽くチーズを炙りながら憎まれ口を叩く。するとアズマはまたしてもわはははと大声で笑った。
「そういやお前、俺の料理で腹壊したんだったなぁ」
「そうだよ。あれ以来お前の飯は毒料理だと思ってるぜ」
「くはは、言ってくれるね」
今街にいる巨人族はみんな北東の山から来ているということはなんとなく教科書で習っていたけれど、こうしてレイの口から故郷の話を聞くのは初めてだ。
僕はレイに倣って自分のチーズを焚き火で軽く炙りながら、興味津々で話を聞く。
「二人とも、仲良いんだね」
僕がそう言うと、アズマは昔を思い出すように目を閉じて静かに笑った。そして記憶を一つ一つ確かめるように、ぽつぽつと少しずつ喋り出した。
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