はじまりは緩やかに。

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はじまりは緩やかに。

 頭の中で曲が流れていた。 ゆっくりとしたテンポの曲で、美しい曲だ。  何という題名の曲だったかしら。  私は今、歩道の隅に座っている。 目の前には、濃いグリーンのスーツを着た男性が 寝ている。 真っ赤な血の海の中で。 そして男性を囲むように複数の人が動いている。 私はその光景をぼんやりと見ている。 いったいどうしたのか。 私の頭は痺れていて、わからなかった。 私の身体のあちこちに血がついている。 誰の血かしら。 「どうしてこんな事になったのだろうか。」  昨日までの私は、きっと今日も同じ毎日が始まると思っていたのに。  何で私は、こんな事をしているのだ。  頭の中では、ずっと同じ曲が流れていた。  私は地方都市で産まれた。 家族は父と、母、そして2歳年下の妹の4人だ。 父はサラリーマンで毎日遅くまで働いていた。 母は専業主婦で家事に育児に忙しく働いていた。  家族の仲もよく休日には皆で近くの公園に行き、 スワンボートに乗る。 当たり前に幸せな毎日だった。 ある日、私と妹に父はオルゴールを買ってくれた。 人形の形をしたオルゴールで私は何度も鳴らした。  美しいメロディ。 今私の頭の中で流れている曲だ。 私の当たり前の幸せはやがて終わる。 私が小学5年になる時、父が浮気をしたのだ。  最初父は家族を優先し、今までの生活を維持しようとしていたと思う。 だが、少しずつ父は家に帰らなくなった。  週に一度の外泊が、二日になり、やがて5日になった。  母は父の浮気がひどくなるにつれ段々と体調を崩していった。 母は私たちを悲しませないよう、隠れて泣いていた。 しかし情緒不安になった母は、イライラして物に当たったり、泣いている姿も隠さなくなっていった。  家事に育児に忙しく働いていた母は、次第に家事や育児もできなくなり、倒れた。  母の倒れた日、父は帰らなかった。 私と妹は救急車を呼び入院する母に付き添った。 困った私たちを助けてくれたのは、母方の祖父と祖母だ。  やがて母は病室で自殺をして亡くなった。  母が亡くなった日、霊安室で私の頭の中に流れていた曲は、オルゴールから流れていた曲だ。 美しいメロディは、現実の残酷さと反比例する。  父は母が亡くなって3日後に帰って来た。 祖父母から母の事を聞いた父はまるで他人事のような表情を見せた。 「この度は、ご愁傷さまでした。 葬式やその他の手続きはお任せいたします。 費用は僕に請求してください。」 父は淡々と祖父母に話した。 そして玄関の扉を開けて出て行った。  父は母を愛していたのだろうか。 愛していないのなら、何故一緒に幸せな時間を過ごしていたのか。 あの幸せな日々は、父の精一杯の努力で維持されていた幸せだったのか。  私は答えのない事をずっと考えていた。 母の葬式が終わったその日、父は女を連れて帰って来た。 父は私たちに、彼女がお母さんだと伝えた。  妹は泣いて父に抵抗したが、父は事実を告げ、女と自分の部屋に消えていった。 私はお母さんは変わるものなのかしらと、とんちんかんな事を考えていた。 それからの私たちの生活は地獄だった。 何もかもが、辛かった。 光は私たちから奪われたのだ。  女は氷実(ひみ)と言う名前だった。 氷実は、父の前ではぶりっ子をするが、私たちには厳しく当たった。  家事は一切やらず、自分磨きをする女だった。 飽きもせず、ネイルや化粧、洋服選びをやっていたのだ。  香水の匂いの強い女で、殺虫剤みたいな香りがしていた。  父は氷実を毎晩抱いた。  父と氷実が愛しあう声が家中に響き私も妹も、眠れなくなった。 氷実は時々あえて父との寝室の扉を開けて私たちに愛しあう姿を見せる事もあった。  でもこの頃は、まだ良かった。  我慢をすれば何とでもなったからだ。  私が高校に入学した頃、父はまた別の女に浮気をした。今度は父の勤める会社の事務員に手を出したのだ。 地味な女で氷実とは、正反対の見た目と性格をしているようだった。 地味な女に負けた氷実の怒りは、私たち姉妹へと むけられた。  特に母に顔が似ている私を氷実は許さなかった。  氷実はイライラすると私たち姉妹に罵詈雑言を浴びせた。罵詈雑言は、やがて暴力に変わった。  凄い力だった。 私も妹もただ耐えていた。氷実の気持ちが収まれば解放されるからだ。それまでは、不規則なリズムで叩かれながら身体から心を離していく。  私たちは、周りに全ての事実を隠して生活していた。母方の祖父母にも言えなかった。 それは、亡くなった母への供養であると信じていた。 しかし、隠し通せるはずはなかった。 たまたま母方の祖父母に会った私たちから発する異常な匂いを祖父母たちは見逃さなかった。 私たちは、祖父母の家に避難することになった。 祖父母の家に避難してからは、安心して過ごせた。 ゆりかごに揺られたような安心した生活の中で、私と妹の深く傷ついた心は回復していった。 やがて私たち姉妹は成人した。 祖父母には感謝の気持ちでいっぱいだ。  父は、結局氷実とも、事務員ともわかれ、新たな女と幸せに生活しているようだ。  本当に最低な父だが、仕送りだけは真面目にしていた。父にも人間らしい心が残っていたようだ。  成人した頃の私は、今目の前に広がる光景を見るなんて思っていなかった。
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