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暦の上ではもうすでに春だというのに、閉店を待たずして雨はみぞれから雪に変わった。植木鉢に寄せ植えされた春咲きの花々が寒さにしおれてみえる。
(二人に先に帰ってもらってよかった。葉っぱの上、もううっすら白い)
予報通り夜半には道路にも雪が積もってくるかもしれない。どんよりと暗い空を見上げて、透は洋菓子店『フリージア』と書かれた看板を店の中に入れ、ブラインドを下ろした。
一階は店舗、二階は番ができる以前にオーナー兼パティシエの叔父の住まいだったが、今では透の自宅だ。都内の雪に弱い交通事情を鑑み、共に働く叔父とアルバイトの大学生にはいち早く退勤してもらっている。
(叔父さん、無事に家についたかな……。伏見君もお友達と落ち合えたかな)
透はカフェエプロンのポケットの中でスマホが律動したのを感じすぐに取り出すと、画面には叔父からの『ありがとうお迎え間に合った』とのメッセージがうつっていた。
ほうっと安堵の吐息を漏らし、タップして中身を確認する。透が溺愛している幼い従妹が、愛らしい笑顔をこちらに向けている写真も送られていた。
子供好きの透は「みあちゃん、可愛い」と舌の上でその名を転がしながら一瞬だけ柔らかく微笑む。しかしすぐに人形のように表情を失くすと、店の中へに向かって踵を返した。
「寒いな……」
駅からそう遠く離れていないが、近くに公園があるせいか閑静で自然豊かな環境。その上通勤時間がゼロの生活は誰からも羨ましがられる。
しかしこんな晩はあまりにも静かで、この世に自分だけが取り残されているような気持になってしまう。
寄り添うものもなく、一人吐き出す息の白さにどうしようも無い侘しさを感じる。
施錠をしてすぐ自宅へ帰ろうと思ったが、暗い自室に戻るのが何となく嫌だった。ほっと一息つこうと、自分の為に丁寧に入れた紅茶を、店の一角に設けた喫茶スペースに運んでいく。
小さな明り取りの窓の向こうに擦れているように落ちてゆく大粒の雪の影が見える。窓辺に置かれたレトロな一つ脚のカフェテーブルについて無意識にため息を一つ吐いた。
(こんな晩に、一人きりは嫌だな。すごく寂しい……)
叔父に夕食を一緒にと誘われていたのに、大雪になり帰ってこられなくなることを考えて断っていた。だがこんな気持ちになるのならば家庭の温もりに溢れた叔父の家で、幼く愛らしい従妹を抱きしめ、癒されに行けばよかった。
視線をさまよわせると机の上ですぐ目に止まるのは、コロンとした愛らしい形の一輪挿しだ。
店名の由来ともなった黄色のフリージアが、春の訪れを予感させる華やかな芳香を光のように明るく振りまいている。
透はその花を苛めるように、ほっそりとした白い指先で触れて首を垂れさせた。
(なんでこんな店名にしちゃったんだろ)
冷たい雨と甘い香り。二つが重なるときまって呼び起こされる哀しい記憶がある。こんな晩はあの日を思い出し、透の気は滅入るばかりだ。
「寒い……」
空調を切るのが少し早すぎたかもしれない。じんわりとした冷気が足元からはい上がってくるようだ。温みを求めて硝子のティーポットから綺麗な琥珀色の紅茶を注いでふうっと息を吹きかける。
目の前が湯気で白く曇ったあとすぐにふわりと散ったのに、何故だか視界が歪んだままだ。自分が泣いているのだと気がついたのは紅茶の中に、涙の雫が落ちたあとだった。
(もう吹っ切れたと思ってたのに)
いい年した大人の男が一人、薄暗い店内で涙を流す。余りみっともよいものではないだろう。雨とは違って音もなく降り積もる雪のせいか、普段よりさらに静かに感じた。
「うっ……」
長く付き合った恋人に、手酷くふられたあの日も氷雨の降る早春の宵だった。
『お前が悪いんだ、透。お前が!』
最後に投げつけられた言葉がまた蘇り、透を苛む。自分が漏らしたか細い嗚咽だけが店の中に響き渡り、その声が跳ね返ったように哀しみがさらに押し寄せてきた。
「朔……」
久しぶりに声に出してその名を呼んでみた。かつては呼びなれたその音を噛みしめて、もう一度、声には出さずに口の形だけなぞる。ここで透が一人泣いていたとて誰に迷惑をかけるわけでもない。また零れた涙を拭うこともしなかった。
こんな晩はもう、泣くことを自分に許そう。女々しかろうが惨めだろうが、感情が赴くままに泣き続けて目が腫れあがったとしても明日は定休日。それこそ誰にも迷惑はかけない。
「ううっ……」
久しぶりに子どもの頃にように零れた涙が、覆った掌を熱く濡らし落ちる。より声を上げて泣き始めた丁度その時だった。
ガチャ、ガチャガチャ。ガシャン、ガシャン。
力強くけたたましく静寂を破る音にびっくりして顔を上げると、ブラインドの向こうに一瞬車のライトに照らされた大きな人影が見えた。ひくりっと喉を鳴らして透は扉をじっと見据えた。
(誰……、朔?)
体格の良いシルエットにかつての面影を感じてどくんっと心臓が鳴る。
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