土曜日の歌

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   あの人は今どうしているのだろうか。    変わらない駅前の風景を見て、ふとそんなことを思った。  県外の大学に進学して半年。夏休みだから帰ってこいと親に言われ、俺は久々にこの町へと戻ってきた。半年しか経っていないからか懐かしさはそんなに感じない。  それでも何故か思い出したのは、小学生の頃に出会った、あの人だった。  5年生になり周りが塾に通いだして、俺も流されるように駅前の塾に通うことになった、それがきっかけだ。毎週土曜日、面白くもない勉強をダラダラとこなす。そんな繰り返しの日々の中で、その人は突然現れた。  夏が終わって少し肌寒くなってきたある日のことだ。いつものように塾を終え建物を出ると、聞き慣れない音楽が聞こえた。  駅前の小さな広場その端っこで、ギターを手にしたその人はとても綺麗な声で歌っていた。黒く長い髪を風になびかせ、美しい曲を歌う姿に当時の俺は一瞬で心を奪われた。  きっとそれだけ夢中になっていたのだろう。俺は迷うことなくその人の元へと進み、すぐ近くの地面に座っていた。  その人は突然目の前に現れた子供に一瞬驚いた顔をしたが、歌うのを止めることはなかった。とてもとても素敵な曲だったということを覚えている。  しばらくして一つ曲が終わると、その人は俺に向かって微笑んだ。 「聴いてくれてありがとう」  その言葉にハッと我に返った俺は、返事もせずにその場を走って去った。子供だったとはいえ、すごく失礼なことをしたと思う。でも、それくらいその人の歌声に引き込まれていたということなんだ。  その次の土曜日もその人は同じ場所で歌っていた。俺もまた同じようにその人の歌を聞く。  最初に俺が逃げてしまったからか、その人は曲が終わっても俺に話しかけることはしなかった。一曲終わると、少し微笑んでからペットボトルの水を一口飲み、また新しい曲を歌い出す。俺は時間が許す限りそこにいて、日が沈みそうになると黙って帰った。  そして、俺はそれを半年以上もの間繰り返したんだ。何度聞いても飽きなくて、それどころか聞けば聞くほど夢中になった。毎週土曜日が楽しみで、憂鬱な塾も頑張れた。クラスの友達にも秘密の、俺だけの特別な時間。    だけど、それはある時急に終わりを告げた。  冬の寒さが和らぎ、もうすぐ4月になるという頃。いつものように歌を聞いて、そろそろ帰ろうかと俺が立ち上がったときだった。初めて会ったとき以来俺に話しかけることはなかったその人が、口を開いた。 「いつも、聴いてくれてありがとう」  突然自分に向けられた言葉に驚いて、俺はその場で固まってしまった。そして同時に少し嫌な予感がした。 「いつも私の歌を聴いてくれる君にだけ、伝えておこうと思って。………私、この町を離れるんだ」 「え…」  それが何を意味するのか、小学生の俺にもすぐ分かった。 「だから、来週からはここで歌うことはないの。今まで、本当にありがとね」  そういって、その人は俺に向かって深く頭を下げた。 「なんで」  気が付くと思わず口から零れ出ていた。 「なんで、この町から出ていくの」  もうその人の歌を聞くことは出来ない。それがひどく悲しくて、か細い声しか出なかった。  その人は優しい顔で俺を見て言った。 「音楽を、勉強しにいくの。素敵な歌を歌えるようにね」  そしてニコッと笑った。その笑顔に、俺は何も言えなくなった。  俺はコクっとうなずいて、言葉を絞り出す。 「………はい」  そうして、俺の特別な時間は終わりを告げたんだ。  不思議なもんだ。あのとき偶然出会った、名前も知らない人のことを、今でもありありと思い出せるなんて。  そっか、あれから、7年以上たったのか。時の流れの早さを思い知る。かつてあの人がいた場所を眺めてから、そろそろ家に向かうかと歩き出した、俺の視界に映ったのは。    ………あの人だった。    見間違いか?いや違う。あのときとは違う姿。長かった髪も短くなっている。それでも、毎週見ていた俺には分かる。あの人だ。 「あの!」  咄嗟に声をかけてしまった。その人は不思議そうに振り返る。  やっぱり当たっていた。かなり7年たってもちっとも変わっていない。 「…はい?」 「あ、えっと」  ヤバい。声をかけてから気づく。この状況冷静に考えると、俺不審者じゃないか。相手が俺のこと覚えてくれてるとは限らないのに。 「えーっと、すみません…間違えまし」 「あれ?」 「え?」  「もしかして君、私にあったことある?」 「えと、はい。この場所で……。」 「やっぱり!あの男の子だよね!曲聴きにきてくれてた!」 「はい」  覚えててくれたんだ。良かった…。 「わー!久しぶり!すごい成長してる、背追い越されちゃった!」 「すみません、突然声かけて」 「アハハ、大丈夫だよ、嬉しい。私のこと覚えててくれたんだね」  思えば、この人とこんな風に会話をするのは初めてだ。朗らかな人だな。  ………そうだ。今なら……。 「あの、一つだけ伝えたいことがあるんですけど、良いですか?」  俺は勇気を出して話し出す。 「うん、何かな?」  あのときはまだ子供で上手く言葉に出来なかった。でも今なら言える。それに今を逃したらもう伝える機会が無いかもしれない。  あのときの俺が、最後に言えなくて後悔したこと。でも本当は、言いたかったこと。 「俺、あなたの歌が、歌声がとても好きなんです!」 「え?」 「あのとき俺、あなたの歌に感動したんです。あなたの曲以上に心を奪われるものには今まで出会ったことがありません。あなたのおかげで、俺、毎週土曜日が楽しみで。なのにあの頃の俺は幼くて、ちゃんと伝えられてなくて………だから、その……」  言いながら、自分でも伝え方が下手なのが分かる。でも、あのとき俺は、この人に一言言いたかったんだ。 「あなたはずっと、俺の憧れです!素敵な歌を、ありがとうございました!!」  思い切り頭を下げる。ちゃんと伝わっただろうか。  恐る恐る顔をあげる。  その人は、涙を流していた。 「えっ!?どうしたんですか!?」 「アハハ…ごめん、何でかな」  その人は、そう言って涙を拭った。そして、少し息をつくと、俺に話してくれた。  この町を離れたあと、音楽を専門的に学ぶための学校に通ったこと。充実した時間だったらしい。時折路上で歌うのはこの町を離れても続けていたこと。それでも、立ち止まってくれる人はほとんどいなかった。冷やかしの言葉も多かったという。そして学校を卒業したあとも、音楽活動は続けていた。……しかし、夢が叶うことはなく、数年前にこの町へと帰ってきたこと。それからは一切音楽を止め、営業関係の仕事に就いて今に至ると。  その人は俺にそう語ってくれたあと、続けた。 「だからさ、今日君がこうやって話しかけてくれて、しかも私の歌が好きだって言ってくれて嬉しかったんだ。すごく。」  俺は、なんて返したらいいのだろう。言葉が出てこない。まるであの頃みたいに。 「私の歌は誰にも認めてもらえなくて、実際に自分から音楽の道を離れてしまった。だから、私がそれまで音楽に掛けていた時間は無駄だったって思ってたんだ」  その人は、そこで一瞬俯いて、また俺の目を見た。 「でも、君が聴いてくれていたから。私の歌は誰にも届かなかったんじゃない。君にはちゃんと届いていたから。私の時間は、無駄じゃなかった。それを知れて……」  そこでその人は微笑んだ。あの頃と何も変わらない美しい表情。 「私は、救われた。だからありがとう」 「………はい」  か細い声でそう言うことしか出来ないのが、もどかしい。 「アハハ、君は変わらないね。」  あなたも変わってませんね、昔も、今も、素敵な人です、そう言いたかったけど上手く言うことは出来なかった。 「それじゃあ、そろそろ行かなきゃ」  その言葉で、俺はこの時間の終わりを知った。 「君にまた会えて良かった」 「俺も、良かったです」  相手の姿を目に焼き付けるように、ほんの少しだけ俺達は見つめ合った。 「さようなら」 「さようなら」  その人は軽く手を降って、駅に向かって歩き出した。俺はその背中を静かに見送る。    これからあの人がどんな人生を歩んでいくのか、俺があの人にまた会うことがあるのか。それは分からない。  ただ一つだけ確かなことは、あの人は、あの日初めて出会ったときから、俺の憧れであるということだ。もう実際に聞くことはないけれど、あのときの歌は今でも俺の中に残っている。そして、あの人の歌以上に、心に響く歌にはこの先一生出会うことはないだろう。    俺だけの、特別な歌。  夏の日差しが眩しく照らす広場を背に、俺は歩き出した。 《完》
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