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と、彼は挨拶をする。
彼の隣にいる部長の話は耳に入らず、颯希は彼に目を奪われていた。
(どこか懐かしい……でも、会ったことがないのに、なぜ?)
彼を見つめている最中、伊原、と部長が名前を呼んだ。ハッ、と我に返って颯希は部長に視線を戻す。
「今日からお前が村岡の教育係だ。なに、一ヶ月ほど面倒を見てくれればそれで良い。なにせ……」
(教育係……?)
部長の言葉が途中から入ってこなくなってきた。村岡を見ると彼はニコッと笑みを浮かべて颯希に会釈をする。
色めき立つ女性社員、その中には颯希に敵意のような視線を向ける者もいた。
(私が何をしたって言うのよ……)
颯希ははぁ、と深いため息を吐いた。
「それじゃあ、社内を案内しますね」
朝礼が終わったあと、颯希は村岡を伴って部屋を出る。社内施設を案内している間も颯希の胸の高鳴りはおさまらなかった。
「えっと……ここが、給湯室です。お茶を淹れたりカップ麺にお湯を入れたりみんなが思い思いに過ごす場所です。始業前、お昼休みは特に混みますね」
給湯室にさつきが先に入る。ここの給湯室はお湯と水が出る蛇口が違うため、その説明をしようと思ったから。
だから、颯希が振り返る前に村岡が静かに給湯室のドアを閉めた。そして、
「やっと……きみに……また、会えた」
「えっ……?」
振り返る前に村岡が颯希を後ろから抱き締めた。
(また、会えた……?)
やはり自分は彼にどこかで会っている。しかし、颯希は彼のことを思い出せない。
だから、素直にどこかで会いましたっけ、と口に出してしまった。
「……そうか、この姿で俺に会うのは初めて、だから……気づかないよね」
抱擁を解いた村岡が、颯希の前で膝まづいて彼女を見上げた。
濡れた黒曜石の瞳で颯希を見つめる彼の姿に、彼女の心臓がまた大きく跳ねた。
そして彼は颯希の手を取りそっと指先に口付けをする。
「お久しぶりです、僕の……大事なご主人様」
ゴールデンブラウンの毛並み、そして黒曜石の瞳。彼女を見上げる甘えたいと訴える彼と何かが重なった。
「……っ、くぅ……?」
「はい、ご主人様。くぅ、です」
ぺろりと指先を舐める空夜の仕草は、確かに自分の腕の中で温もりを失ったかつての飼い犬が行っていた仕草と同じだった。
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