2.秋めく通学路

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2.秋めく通学路

 夏休みも明け、焼けた肌の色が徐々に元通りになろうとしている十月初旬。我が高校は二学期中間試験の真っ只中にいた。  テスト期間中は部活動がない。早く帰れるのはいいけれど、家に帰って勉強しなければならないのは嫌だ。しかも今日は雨が降っている。テストに雨。最悪の組み合わせに気分が沈んでいた。 「沢野ー。また明日ー」 「うん、バイバイ」  友だちと別れて靴箱へ向かう。三日間のテストのうち、二日目が終わった。明日で終わりだ。やっと解放されると思うと、何とか頑張ろうと思えた。  靴に履き替えて、傘置きから自分の傘を探す。朝から雨が降っていたので満杯だ。えっと、どこに入れたんだっけ…… 「あ、沢野だ」  唐突に名前を呼ばれた。振り返ってドキッとする。そこには無気力な雰囲気を隠しもせず、常に眠そうな目をした同じクラスの同級生が立っていた。 「及川君」  彼とは別に仲が良いというわけではなく、会えば挨拶くらいは交わす程度の関係だった。でも、五月のテストに一緒に遅刻したときから私は及川君のことが気になっている。相変わらずマイペースな彼は緩慢な動きで傘立てから黒い傘を抜き、クワっと大あくびをひとつした。あ、及川君は黒い傘なんだ。  私は半透明の傘をひとつひとつちょっと抜いては戻すを繰り返す。 「……沢野、何してんの?」 「え、あ、いや、傘、どれだったかなぁって……」  似たような半透明の傘がたくさん並んでいて、自分の傘が中々見つけられない。こういう時の為に取っ手部分には名前を書いたシールを貼っていたんだけど、どうも見当たらない。剥がれてしまったのだろうか。 「どんなやつ?」 「半透明の傘。今日は朝、車でお父さんに送ってもらったから歩いて帰らなきゃいけないんだけど……」  ふと外を見ると、普段より灰色をした雲が低い位置にあり、目視できるほど雨が降っていた。さすがにこの中濡れて帰るのは嫌だな。折りたたみ傘も持ってないし、どうしよう。 「盗まれたんじゃね? ああいう傘、盗まれやすいから」 「えぇー……名前貼ってたのに?」 「沢野のこと好きな奴が持っていったのかも」 「……そんな人いないよ」  思わずため息が出た。雨とテストでただでさえ気分が落ちていたのに、傘まで盗まれるなんて。さては占いが最下位だったな。見てないけど。 「あーもうしょうがない。濡れて帰ろ」  学校から家までは歩いて30分くらいかかるけど、小走りで帰れば大丈夫かな。「じゃあね、及川君」と別れを告げようとした時。 「入っていけば?」  及川君はバサッと大きく黒い傘を広げ、無表情で誘ってくれた。予想もしていなかった言動に、頭が追い付かない。 「え」 「さすがに家までは送ってあげらんないけど、都電の駅までなら送るよ」  左側を大きく空けた及川君に「早く」と促された。待たせちゃいけないと焦った私は「あ、じゃあ、お邪魔します」と深く考えずに及川君の差す傘の下に入る。 「ん」  同じ右足から進み始めた。屋根があるところから外に出た瞬間に、パタパタと傘に雨が当たる音がこもる。急に夢見心地になって、身体がフワフワし始めた。え、私今、及川君と相合傘して帰ってる? 「沢野はなんの教科が得意なの?」 「えっと、なんだろ。国語、とか?」 「あー、現代文とか得意そう」 「うん。古文は苦手だけど」 「俺、逆に古文得意だけど。歴史とかも好きだし」 「うわ、私とは真逆だね。日本史も世界史も苦手」  及川君がいる右側に顔を向けることができない。相合傘をしているという事実に緊張してしまって、なんの会話をしているかも分からなかった。大丈夫かな。私、ちゃんと及川君と言葉のキャッチボール、できてる? 「沢野」 「はいっ」 「あんまりそっち行くと、俺が濡れる」  いつの間にか及川君から距離を取っていたらしい。彼は私に傘を傾けてくれていて、傘からはみ出た及川君の右半身が雨で濡れていた。慌てて及川君との距離を縮める。その時、ちょっとだけ肩が当たった。 「あ、ごめん」 「ん」  微かに吹く風は涼しいのに、私の身体は火あぶりの刑にあったかのように熱い。心臓が激しく動き回り、息苦しさまで覚える。ああ、もう、誰よ私の傘持っていった奴。  及川君と一緒に帰ることに関しては嬉しいんだけど、ゼロ距離で帰ることに関しては準備不足だった。前回一緒に登校した時は自転車を挟んでいたから、遮るものがなにもない同じ傘の下だと私が私ではなくなってしまうので、及川君に変な奴だと思われるのが怖い。 「止まない雨はないから大丈夫だろ」  焦っている私の隣で、のんびりとした口調の及川君は眠たそうな声で言う。唐突な話題変更は及川君の得意技で、最初は戸惑っていた私もだいぶ慣れた。「そうだね」と適当に返事をして早く駅に着け、と願った。 「秋バラの方がいい匂いするよな」  都電荒川線の三ノ輪橋駅が見えてきた頃、及川君がポツリと呟いた。ここはバラが線路に沿うように植えられていて、見頃になると色とりどりのバラが咲くのだが、十月上旬の今はまだ咲いていない。どんな香りだったっけ、と思い出そうとして私の嗅覚がある匂いを感知した。 「あ、金木犀の香りだ」  雨が降っているのに微かに香った。甘すぎないフルーティーな香りに、暴れまわっていた心臓が徐々に落ち着きを取り戻す。 「え、匂わないけど。沢野、鼻が良いんだな」 「そう? ちょっとだけだけど、いい香りがするよ?」  二人してクンカクンカと鼻を動かす。雨の匂いに混ざって秋の訪れを教えてくれる香り。そうか、もう秋か。  踏切が見えてきた。カンカンと音が鳴り、遮断機がゆっくりと下りる。 「金木犀って雨風に弱くて、花びらが落ちるとすぐに香りが消えるらしいよ」 「……前から思ってたけど、及川君って花に詳しいよね。バラの葉の花言葉まで知ってたし」  確かバラの葉の花言葉は『諦めないで』だった。思い出して苦笑すると、及川君は私の目を真っ直ぐ見て言った。 「沢野って花、好きだろ? そういう知識持ってると、会話の糸口になると思ってたんだけど、違った?」 「え」 「傘、使っていいよ。俺はもう電車に乗るだけだし、返すのはいつでもいいから」  じゃ、また明日。  及川君は一方的に傘を私に持たせて、走っていってしまった。  なにが起きたのか分からず、私はその場に立ち尽くす。  ――沢野って花、好きだろ? そういう知識持ってると、会話の糸口になると思ってたんだけど、違った?  及川君の言葉が何度も頭をリフレインする。それは一体、どういう意味だろう。  もしかして、などと都合のいい考えが頭を掠めて、いやいやないないと頭を振って否定する。  ここ最近テストのことで頭がいっぱいだったから、まともな考えができなくなってるんだ。そうだそうだ落ち着け私。  さっきまで及川君が握っていた傘の柄は、今私が握っている。あれ、間接的に手を握ってる? いやいやちょっと待て私。これじゃ変態じゃないの!  及川君が乗った都電が出発して遠ざかっていく。遮断機が上がり、待っていた人たちが踏切を渡り始めた。  相変わらず灰色の雲から雨が落ちている。及川君の黒くて大きな傘は、そんな雨から私を守ってくれている。  何気なくまだ咲いていないバラの苗木を見て、所々につぼみがあるのを見つけた。  ――秋バラの方がいい匂いするよな。  及川君の言葉が脳裏に蘇る。  この秋バラたちが咲いたら、一緒に花の香りを楽しみたいな。  ちょっとだけテストのことを忘れて、綻びそうになる口元に力を入れながら私は帰途についた。
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