5人が本棚に入れています
本棚に追加
1.夏めく通学路
ヤバいヤバいヤバいヤバイ。こんなこと初めてでとにかく急がなきゃと赤い自転車を漕ぐ。
五月中旬。太陽が昇った朝は空気が澄んでいて気持ちがいい。本来ならば自転車を漕ぎながら鼻から息を吸って澄んだ空気の風味を味わうのだが、今日はそんなことをしている暇はない。とにかく在学している高校へ一秒でも早く向かわねば。
私は絶賛遅刻中だった。すでに一時間目は始まっており、しかも中間テスト真っ只中である。今まで遅刻なんてしたことがなかった。遅刻どころか無遅刻無欠席の超健康女子で小学校、中学校と皆勤賞をもらったことがあるほどだ。それなのになぜ今日は遅刻しているのか。大きな荷物を抱えたおばあちゃんを手伝ってたわけでも、排水溝に落ちた子猫を助けていたわけでもない。強いて言うなら夜遅くまで勉強して、さらにはスマホの電源が切れていてアラームが鳴らなかっただけで、つまりはただの寝坊だった。昨日の昼くらいから確かにスマホの調子が悪かった。まさか電源が勝手に落ちるなんて想像もしていない。母はというと、病棟看護師をしていて夜勤だった。朝帰ってきて、まさか私がまだ寝ているとは思わなかったらしい。停められた赤い自転車を見て慌てて起こしに来てくれた。
その時点でテストはもう始まっていた。
学校までは自転車で20分。超特急で行けば15分。一時間目にはどうしたって間に合わない。でもとりあえず学校に行かねば、という謎の使命感に駆られて私は自転車で爆走していた。
常磐線の高架下をくぐり、狭い道を真っ直ぐ進む。前に都電荒川線が走る線路が見えてきた。右側にある三ノ輪橋駅に一両編成の電車が停まっているが、まだ出発しないのか踏切の遮断機は下りていない。行ける! と思った刹那、カンカン、と無情にも警告音が鳴り響いた。こうなれば止まらざるを得ない。ブレーキをかけて素直に止まった。
一旦呼吸を落ち着かせようと深呼吸すると、花の香りが鼻を掠めた。五月中旬から六月中旬頃に見頃を迎える、春バラだ。線路に沿うように並べられている。ボランティアの方たちが手入れをしてくれていて、赤、白、黄色、ピンクなど色とりどりのバラが咲き誇っていた。綺麗なんだけど、今の私にはそれを楽しんでいる余裕はない。早く遮断機上がれ上がれ……と黄色と黒の危険色をした棒を睨んでいると、電車は動き出し、遮断機がゆっくりと上がり始めた。私は足を乗せたペダルを力強く踏み込み、同時に立ち漕ぎを始めた。誰よりも早く線路内に進入する。気分はお店でバーゲンセールの店内放送がかかった時の主婦だ。どいてどいて! 私が一番乗りよ! 遅刻している時点で一番乗りではないけれど。
商店街を横切ろうとした時、同じ高校の制服を着た男子高校生の後ろ姿を発見した。電車に乗って来たのか、徒歩だ。私と違って随分と歩みが遅い気がする。追い抜きざまに横顔をチラと見て、「あ」と声が漏れた。追い抜いてからブレーキをかけて止まる。顔だけ振り返って声を掛けた。
「及川君?」
「……あぁ、沢野」
彼はあくびをしながら近付いてきた。同じクラスの同級生だ。ナマケモノのような無気力な感じの少年で、仲良くはないけど、挨拶くらいすることはある。
「及川君も遅刻? 急がなくていいの?」
「今更急いだってもう英語のテストには間に合わないから諦めた。追試受ける。二時間目の数学に間に合えばいいし、急ぐ必要なんてない」
「追試……その手があったか!」
本試験を受けなければ単位は貰えないんだとばかり思っていたので、及川君の発言で覆された。そうか、追試か。焦っていた心に救いの手を差し伸べられた気がした。すうっと全身の力が抜けていく。そうなると力を入れて自転車を漕いでいたのが馬鹿らしくなってきた。自転車から下りて、押し歩くことにしよう。及川君と並んで歩く。
家を出た時は気が付かなかったけど、頭上には抜けるような青空が広がっていた。それを土台にして、夏祭りに屋台で売っている綿あめを五個くらいギュッとまとめたような、中は濃くて外はフワフワな白い雲が散らばっている。普段は教室にいて見上げることのない空を見ていると、今更ながら学校をサボっているという背徳感が生まれてきた。え、本当に二時間目に間に合えばいいのかな。やっぱり早く行って「急いで来ました! やる気はあります!」ってアピールした方がいいんじゃないの?
「あのさぁ」と自転車を挟んで右側にいる及川君の方を向くと、彼は半目でこちらを向いた。
「沢野はなんで遅刻してんの?」
「え、あ、寝坊」
「ふぅん。俺と一緒だ」
「あ、及川君も寝坊したんだ」
「うん」
クワっとまたあくびをする及川君。なんというか、のん気? いや、マイペースというべきか。とにかくのんびりとしていて、彼の周りだけ時間の流れが穏やかなんじゃないかと思えてきた。一日24時間じゃ足りない私に対して、48時間あって時間を持て余してる及川君。なんか、それって、不平等だ。ちょっとでも時間を分けてほしい。
「沢野はバラ、見た?」
そして唐突に話を変えるから反応が遅れる。「バラって、駅周辺の?」と問うと、及川君は首だけ動かして頷いた。
「見たよ。春バラ、見頃だもんね。それがどうしたの?」
「いや、別に。バラの花言葉って色によっても違うし本数によっても違うって、知ってた?」
「知ってるよ。赤は『あなたを愛してます』で、黄色だと『友情』とかでしょ? 一本だと『一目惚れ』で108本だと『結婚して下さい』とか」
「そうそう。じゃあ葉にも花言葉があるの知ってる?」
なにそれ知らない。首を横に振ると、及川君は握り拳を作って胸の前に持ってきた。
「『諦めないで』」
……それ、ちょっと前の及川君に言ってあげたい。
それにしても及川君って結構喋るんだ。教室ではよく机に突っ伏してるから、無口で無愛想で取っ付きにくい人だと思ってたけど、案外気さくなんだな。これは寝坊しなかったら知り得ないことだったので、ちょっとだけ得した気分になった。
通学する高校の、自転車置き場がある門が見えてきた。当然ながら校舎周辺には学生などいない。私と及川君の二人だけ。二人、だけ。
……なんか急にドキドキしてきた。いやいや、たまたま寝坊して、たまたま及川君と一緒に通学したってだけで、別に特別なことじゃない。勘違いするな私。
「じゃ、自転車停めてくるから」
「ん」
自転車置き場の空いたスペースに、自分の赤い自転車を滑り込ませる。はぁ、イレギュラーなことが起こると脳みその働きが鈍くなって困る。二時間目は数学のテストだ。せっかく昨日の夜遅くまで勉強したんだ。無駄にしないように、気を引き締めていかないと。
自転車置き場から靴箱へ向かうと、すでに上履きに履き替えた及川君が壁に寄りかかっていた。
「やっと来た」
「え、嘘、待っててくれたの?」
「まぁ。沢野と一緒だったら、一人より怒られないかなって思って」
「……私を買い被ってるよ、及川君」
理由はなんであれ、待っててくれたことに自然と口元が綻ぶ。気付かれたくなくて、外に顔を向けた。
空は青く、雲は白い。爽やかな夏の気配が、すぐそこまで迫っているようだった。
――そして及川君の目論見も虚しく、二人揃って先生にこっぴどく怒られたのは言うまでもない。
最初のコメントを投稿しよう!