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巫(かんなぎ)
古来より巫女とは、神楽を舞い祈祷をし、また占いを行い、時に神託を得て他の者に伝えるなどの役割を担ってきました。
巫女のうち、朝廷(宮中)に仕える者を
巫(かんなぎ)といいます。
巫女というと、斎宮のように未婚の女性というイメージがありますが、巫(かんなぎ)を含め多くの巫女は結婚した後も巫職を続けていました。
ですから、私(十市皇女)の母(額田王)も、私を産んだ後も父(大海人皇子)の妻(妃)とはならず、巫(かんなぎ)として儀式で神に捧げる舞を舞い、歌を詠むなどして宮中に仕えておりました。
母方の祖父鏡王(かがみのおおきみ)の名からも分かるように、母方は、
神事・巫(かんなぎ)の系譜です。
その名の示すとおり皇族の末で、
男は鏡を造り、女は巫(かんなぎ)として国を守り、大王家の繁栄を祷ることを担ってきた一族なのです。
母額田王は、特に斉明天皇に重用されておりました。母も大王家の血を引いておりましたから、望めば父大海人皇子さまの妃(妻)になることもできたのでありましょう。しかし、刀自(主婦)となるよりも巫(かんなぎ)として
大王に仕える道を選んだのです。
神楽を舞い、歌を詠み上げる母は、
とても生き生きとしていて、輝いておりました。国の栄えと民の幸せを祷ることこそ、己の成すべきことと誇りを持って宮仕えする姿は、私の憧れでもありました。
ですから、私も皇女ではありますが、高貴な殿方の妃になるための嗜みを身につけるより、母のようになりたいと思っておりました。国と大王家の栄えの為に宮中で仕える巫(かんなぎ)としての務めを果たせるよう、幼き頃より身を清め、また舞や歌を習い、修行を積んで参りました。
巫女は、穢れを払い、神、貴人、物に瑪那(マナ=神秘的な力の源)を与え、
また霊鎮めなども行なうのが務めです。
ですから、心身ともに健康でなければなりません。
母額田王は、特に歌に優れ『万葉集』に長歌3首,重出歌も含め短歌10首が収められています。
斉明天皇の西征途次に詠んだ
熟田津(にきたつ)に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな(巻一)
近江遷都のおりに三輪山によせて詠んだ
長歌、反歌は、天皇の御心を天皇に代わり巫として詠み上げた代作歌であります。
また、天智天皇の御代に詠まれた、
春秋の優劣を判断する長歌(巻一)や
蒲生野の遊猟で大海人皇子と交わした
あかねさす紫野行き標野(しめの)行き
野守は見ずや君が袖振る(巻一)
などは、恋の歌の形をとりながら、
宮廷における宴に雅な花を添え場を華やかにするものでした。
母額田王は、宮廷における代作歌人として、我が国の歌だけでなく中国の詩にも造詣が深く、繊細で優美な歌も詠むことができ、また、天智天皇が薨去された折は公的な挽歌を詠むなど才媛として、衆を代弁する専門歌人として活躍しておりました。
君待つと我が恋ひをれば我がやどの
簾(すだれ)動かし秋の風吹く
(巻四)
母額田王の歌の抒情性と技巧は、
女の雅(みやび)歌、女歌の流れとして、
大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)を経て、平安時代の女流文学へ影響を与えたとも言われているそうでございます。
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