縁談

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大海人皇子と額田王は帝の部屋を退出した。 「額田王、この縁組あまり気が進まないようだな。私に遠慮しているのか?」 「そうではありません。 先ほど高市さまとお会いして、 この方ならと本当に感じたのです。 十市とは母娘ではありますが、親子と言うより師匠と弟子のようなところがございました。 巫としての資質がないわけではありませんが、十市は殿方に嫁いだ方が良いのではと、このところ感じておりました。 ただ、大友さまとは…身分が釣り合わないからではなく、なぜか不安なのです。十市がつらい思いをしそうな気がして。 中大兄さまは、お強い方ですが、中臣鎌足さまと少ない側近だけで物事を急がれている気がするのです。あまり急いで無理をすると、必ず不満を持つ者が出てくるものです。 それが、怖いのです。」 「私からも兄に話してみましょう。 私の話なら、兄も聞く耳を持つはずです。 しかし、高市の妃になってくれたら、私も嬉しかったのだが、縁がなかったのかな。残念だ。」 大友皇子さまは、中大兄皇子(天智天皇)の第一皇子ですが、母は伊賀采女宅子娘といい、余り身分の高い方ではないので、本来であれば帝の位に就く方ではありません。 「采女」とは、朝廷に仕え、主に天皇の食膳の奉仕をした下級の女官です。その多くは地方豪族の娘たちで、朝廷への服従の証として差し出された者たちでした。 もちろん、朝廷に差し出すからには、見目麗しく、才覚のある娘が選ばれたでありましょうから、天皇や皇子から愛を受け妻となる者もおりました。 大友皇子さまの母もそういった者のひとりだったのでしょう。 大友皇子さまの父中大兄皇子さまは、皇族の倭姫王を皇后に、蘇我氏の娘も妃としていましたが、倭姫王さまには子がなく、蘇我氏の妃には皇女しかお産まれになりませんでした。(健皇子は話すことが不自由で夭折) 皇子の母は、いずれも女官上がりの身分の低い者ばかりでした。 元々、中大兄皇子以前は長子継承ではなく兄弟継承が基本で、成人でなければ皇太子にもなれませんでした。 それだけに、後継者争いも頻繁に起こりました。 大王家自体も、まだ絶対的な力を持っているわけではなく、豪族(特に蘇我氏)の意見は無視できなかったからです。 ですから、中大兄皇子さまの後継者は私の父大海人皇子さまと目されており、天智天皇として即位された時、 皇太弟として立たれたわけです。 中大兄皇子さまは、兄弟の結びつきを固くする意味で、4人もの娘を大海人皇子さまに与えました。 そして、私を第一皇子の大友皇子さまの正妃にと望まれたのです。 しかし、中大兄皇子さまは、乙巳の変で曽我本家を滅ぼしたように、豪族の力を弱め、大王家から天皇家へと、 中央集権化を進め、兄弟継承から長子継承へと国の在り方を変えようと考えておられたのです。いささか強引すぎる形で。 ですから、私を大友皇子さまの正妃に迎えたのは、兄弟の結びつきを強くするためではなく、別の思惑があったのです。
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