中大兄皇子

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中大兄皇子

大友皇子さまとの結婚の話があって少し後、私は中大兄皇子さまに呼ばれた。 中大兄皇子さまは伯父ではあるけれど、 朝廷の実質的な指導者であり、お忙しい方なので、ひとりでお目にかかるのは初めてだった。 少し怖い方という印象だったので、 緊張して宮中の中大兄さまの部屋に伺った。 「十市でございます。 お召しにより参上いたしました。」 「十市皇女、よく来てくれた。畏まらず、今日はこれから家族になる者として少し話したいと思って呼んだのだ。大友皇子とも引き合わせたかったしな。 楽にして、座りなさい。」 「ありがとうございます。」 「額田王から聞いている。この度の縁組、ひめみこ自ら大友の妃にとなると言ってくれたそうだな。難しい縁談だとは分かってはいたが、受けてくれて感謝している。」 「過分なお言葉、痛み入ります。 母のように巫になりたいと思っておりましたが、私には母のような資質はなかったようでございます。こらからは、大友さまをお支えすることで民の幸せを祈って参りたいと存じます。」 「大友は、真面目な努力家ではあるが、豪胆さに欠けるところがある。 良く言えば慎重なのだが、ひめみこの支えがあれば、良い面となってくれるだろう。 ひめみこには、私が個人的に祝いというか礼というか、何か望みの物があれば贈りたいと思って、それも聞きたかったのだ。 ひめみこなら何も不足はしておらぬだろうが何か望みはないか?」 私は少し躊躇いながら申し上げた。 「もし、わがままを申し上げても良いのなら…、昔厩戸王(=聖徳太子)さまがお講義されたという記録書、法華経の注釈書を読んでみたいと思っております。 貴重な物ですから、難しいとは存じますが…」 「法華経の注釈書か…。 仏法に興味があるのか?」 「はい。これまでは巫となる修行を積んで参りましたが、法華経は仏教以外の教えも否定せず、全てを包含する教えと聞きました。 また、海の向こうに住む民も元はこの国から渡った者の子孫も多くいるとも聞きました。 ですから、全ての民の幸せを祈れる教えを学びたいと思っています。 『法華経』は、厩戸王さまがこの国に一番ふさわしいと考えられたお経と聞いております。」 「『三経義疏』(『法華義疏』『維摩(ゆいま)義疏』『勝鬘(しょうまん)義疏』)なら、中臣鎌足なら写本を持っておろう。鎌足に写本を用意させるので、しばらく楽しみに待っているが良い。」 「ありがとうございます。」 「ひめみこは、なぜ法華経を学びたいと思ったのだ。もう少し詳しく聞かせてくれないか。」 「拙い知識でお恥ずかしゅうございます。ある尼から聞いたのですが、 厩戸王さまは、仏法は生活の中で、 生きて働くものでなければならないと考えておられたそうでございます。 法華経では、自分ひとりの解脱を目指すのではなく、皆が今生きている場所で、平安と喜びに満ちた人生を送れるように、私たちには、この世界に生まれた深い意味とそれぞれに役目があるのだと教えているそうでございます。 お釈迦様も、法華経以前の経は仮の教えで、法華経を聞いて分かるための準備をする(機根を整える)ための教えであって、本当に説きたかったのは法華経だと書いてあるそうでございます。」 その時、大友皇子がやって来た。 「父上さま。大友です。失礼いたします。」 「あぁ、待っていたのだ。十市と引き合わせたいと思ってな。」 「十市さま。ごきげんよう。父上さまと何のお話しをされていたのですか?」 「ひめみこに何か祝いの品を個人的に贈りたいと思って、欲しい物を聞いたのだ。そうしたら、法華経の注釈書が望みと言うので、その理由を聞いていたのだ。ひめみこは、若いのになかなかしっかりした考え方をしている。 大友は、良き妃を得ることができたの。」 「私ひとりではとても難しく読みこなすことなどできませぬが、どなたか教えて下さる尼君を母に頼んで探していただくつもりでおります。」 「ひめみこは、勉強家なのですね。 私も見習わねば。」 「お恥ずかしいです。これまで巫になる修行ばかりしておりましたので、女としての嗜みを身に付けるのが先と、母に叱られております。」 「ひめみこは、そのままで充分女人として魅力的ですよ。父上さまもそう思われませんか?」 「そうだな。大友は、ひめみこが気に入ったようだの。私の用事は済んだから、ふたりで庭を散策してくるが良い。」 そう、中大兄皇子さまに促され、私と大友皇子さまは部屋を退出して、ふたりで庭を歩きながら話すことにした。
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