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中臣鎌足の謎
中臣鎌足さまは、早くから中国の史書に関心をお持ちになっておられたとお聞きしています。
隋・唐に遣唐使として留学してお帰りになられた南淵請安先生が塾を開くと、そこで儒教を学び、蘇我入鹿さまと共に秀才と称されていたそうでございます。
それは、『六韜』(中国の代表的な兵法書で、武経七書の一つ。)を暗記しておられたほどであったそうです。
644年(皇極天皇3年)
中臣氏の家業であった祭官に就くことを求められましたが、鎌足は固辞して摂津国三島の別邸に退きました。
それは、南淵請安先生の塾において
シナ大陸や東アジアの動きを学び、
それから考えて、日本も豪族の連合国家ではなく、中央集権国家にならなければならないと思われたからなのでしょう。
しかし、もともと祭官の家柄である
鎌足さまは、伝(つて)がなければ政に参画することは出来ません。
いったいどの様にして中大兄皇子さまの側近となられたのかは、詳らかになっておりませんが、あるいは南淵請安先生の塾で共に学びあい、理想の国家像を語り合うことで培われていったのかもしれません。
この時代、東アジアは激動の時代であり、これまでのような豪族の連合国家では、シナ大陸の国々との対等な関係が持ちにくく、油断をすれば征服されかねないという恐れがありました。
豪族の長の大王から、天皇に権力を集中させる中央集権国家へ。それが鎌足さまと中大兄皇子さまの目指すところとなったのでした。
おふたりはまず、乙巳の変で蘇我本家を滅ぼしました。
そして、皇位継承権のある皇子たち、蘇我本家が後ろ盾となっていた古人大兄皇子、孝徳天皇の皇子、有間皇子を謀叛を企てたとして処刑しました。
また、乙巳の変で協力した蘇我氏の分家蘇我倉山田石川麻呂とその一家も謀叛の疑いで滅ぼしたのです。
こうして、豪族たちの力を削ぐ一方で、公地公民制、冠位十九階、戸籍(庚午年籍)など、後に大化の改新と呼ばれる諸制度を整えていきました。
こうして、倭国という豪族連合から
天皇中心の日本国への道筋を、おふたりを中心とした少数の側近政治で進めて行かれたのでした。
660年百済滅亡
唐は高句麗を制圧するためその背後を抑えるべく新羅を支援して百済を攻撃して滅亡させました。こうした東アジアの情勢の中で、中央集権化を進めて国力を高める必要は確かにあったのでしょう。
しかし、謎なのは、白村江の戦いなのです。
人質として倭国にいた百済王子の扶余豊璋の要請があったからと言って、なぜ百済復興の為に白村江の戦いを起こしたのでしょうか。
反対したのは、大海人皇子さまだけでした。臣下達は、中大兄皇子さまの不興を買いたくないために誰も反対しないのでした。そして、なぜか、鎌足さまの存在が白村江の戦いの前後で突然空白になるのです。
唐や半島の情勢に詳しい鎌足さまであれば、無益な戦いと分かるはずなのに、反対したとも逆に先頭に立って行ったという記録もなく、空白なのです。斉明天皇自らが西に赴かれた国を挙げての戦いだというのに…。
実は、中臣鎌足さまは百済の王子豊璋だったという説があるのだそうです。
政(まつりごと)に詳しくない私にはその真偽の程は分かりませぬが、(豊璋王子とお目にかかったこともありませんし)もしそうであれば、辻褄があうことは、確かなのです。
この白村江の戦いでの大敗が、国に大きな損害を与え、壬申の乱の遠因となったとも言われております。
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