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白村江の戦い
天智2年8月(663年10月)
朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、百済復興を目指す
日本・百済遺民の連合軍と
唐・新羅連合軍との間の戦争のことを指します。
朝鮮半島南部には、倭国から渡った人もかなりいたようですし、倭国にとっては重要な鉄資源の供給地でもありました。
4世紀頃から百済とは人的交流も多く、
大陸の新しい文化は、百済からもたらされるものが多くありました。
また、隋や唐というシナ大陸の国へのルートとしても、高句麗・新羅への牽制としても、百済との友好を重視してきました。
しかし、7世紀に入ると百済国内が乱れ初めたのです。
654年
大干ばつによる飢饉が半島を襲った際、
百済義慈王は飢饉対策をとりませんでした。
655年2月
皇太子の扶余隆のために宮殿を修理
656年3月
義慈王が酒色に耽るのを諌めた佐平の成忠(浄忠)が投獄され獄死。
657年4月
干ばつが発生し、草木はほぼなくなったと伝わる。
このような百済の退廃ぶりが、倭国だけでなく唐にも伝わっていたのです。
そんな百済の防衛の不備、人心の不統一や乱れについて唐の『冊府元亀』に「海の険を負い、兵械を修さず。男女分離し相い宴聚(えんしゅう)するを好む」(643年9月)とあるそうです。
このような状況につけこまれ、
ついに660年百済は滅亡しました。
民を守り慈しむべき国の指導者達が、自らの欲と快楽に耽った結果なのです。
それなのに、他国に復興の援助を要請するなど、何の為の復興なのでしょう。
半島南部の権益を守るためではあっても、唐・新羅という大きな勢力との対決などという無謀な賭けを、なぜ国を挙げて行ってしまったのでしょうか?
反対したのは大海人皇子さまだけときいております。大陸や半島の情勢に詳しいはずの鎌足さまは、何をされていたのでしょうか。
私の母額田王も斉明天皇に従い西国に赴きました。四国の伊予の熟田津へ行宮され、そこから九州へ渡る時に詠んだ一首。
熟田津(にきたつ)に、船(ふな)乗りせむと、月(つき)待てば、潮(しほ)もかなひぬ、今は漕(こ)ぎ出(い)でな
斉明天皇は筑紫の朝倉宮に遷幸し戦争に備えられました。しかし、遠征の軍が発する前の661年、当地にて崩御されたのです。
それでも中大兄皇子さまは出兵を取りやめることなく、即位せず称政のまま戦へと突き進んで行かれたのでした。
663年10月
ついに、白村江での戦いが起こりました。倭国は大敗し、白村江は血に染まったと言います。
そのまま唐・新羅連合軍が倭国に攻め込んでくる可能性がありました。そうならずにすんだのは、手を組んでいた唐と新羅が袂を分かち敵対したからです。
唐が高句麗を滅ぼすと、新羅は唐の勢力を半島から追い出そうと、新羅と唐が戦闘状態に陥りました。お陰で、倭国にまで手が回らず、攻め込まれずに済んだのです。
倭国軍の実態は、各豪族の軍による連合軍でした。過去に何度も朝鮮半島への出兵も経験していましたが、指揮系統があいまいで確立されてなく、組織戦で唐・新羅連合軍に圧倒されてしまったのです。
もしかしたら、中大兄皇子さまは、
旧態依然とした豪族の排除と軍制の解体を目論んで、勝てないのを承知の上で開戦に踏み切ったのかもしれません。
それまでの組織が粉々になるくらいの酷い敗戦のお陰で、確かに豪族の力が弱まり、相対的に中央集権化が進められたとも言えるのかもしれません。
白村江の戦いでの損害を、朝廷は各豪族に負担させたまま補填することはなかったそうです。その上、国土防衛の為として、さらに水城を築くことなどを豪族たちのに求めたのです。
こうして、豪族たちの不満は高まってゆき、それは大海人皇子さまを待望するものになっていきました。
結果として壬申の乱へと向かい、大友皇子さまの自害という結末を迎えることになるのです。
皇位継承の争いをなくし、国力を高めるために行ってきた改革のはずなのに、どこで中大兄皇子さまは道を誤ってしまったのでしょう。
人は権力を手にしたとき、その魔力に魅せられて“何の為”を忘れてしまうのでしょうか?
己の欲のために他を犠牲にすれば、
一時は栄えたとしても、必ず自分に還ってくるのです。
還著於本人(げんじゃくおほんにん・他にさし向けたものが逆に自分に帰ってくること。)とは、そういうことなのでしょう。
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