私(十市皇女)のこと

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私(十市皇女)のこと

私は、大海人皇子を父に、額田王を母として生まれました。 大海人皇子は、後の天武天皇、 額田王は、 「あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る」 の歌で知られる巫でございました。 母額田王は、父大海人皇子の最初の恋人であったのは間違いないようですが、妃にはなりませんでした。 天皇(=天武天皇)、初め鏡王の女額田姫王を娶して、十市皇女を生しませり。 〔天皇初娶鏡王女額田姫王、生十市皇女。〕 『日本書紀』巻第二十九 (天武天皇二年二月条) そのためなのか、あるいは、これから物語る出来事のためなのか、私は、皇族を両親に持つ第一皇女でありながら、 公式の記録には詳しく記載されていません。 また、母額田王が宮廷歌人として有名であるのに、私の歌は残されていません。 私は、壬申の乱で敗れた大友皇子さまの正妃でございましたが、その記録さえないのです。 歴史は常に勝者が書くものだからなのでしょう。 父と夫が闘った壬申の乱。 勝者の娘であり、敗者の妻。 難しい生き方を私は選んだことになります。 しかし、単なる悲劇の女性と思って欲しくはないですし、私自身もそうは考えません。 歴史や政治に翻弄された弱い女ではなく、私なりに自分で望み選んだ人生なのです。 古代日本(倭国)において、女性の役割は軽いものではありませんでした。 この時代、妻問婚という、男が女の家に通う形の結婚でした。 生まれた子どもは母の家で育ちます。 家は母から娘へと女が継いでいくものだったのです。 男たちは妻の元に通い、子を作りますが、その子は妻の家族が育てるのです。 ですから、家と家族をまとめる家刀自と呼ばれた女性が一族の繁栄を担い重んじられていたのです。 ですから、同じ父を持つ子どもでも、母の身分によってその尊卑は変わるのでした。 母額田王は、妃にはなりませんでしたが、その名からも分かるように皇族の末であり、皇極天皇、孝徳天皇、斉明天皇、天智天皇と4代にわたる天皇の治世の安寧を祷る巫として重用された人です。 この事からも、私の身分は決して軽いものではなく、私が誰の妻となるかは、政の上で大変重要な事なのでした。
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