天智天皇即位と崩御

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天智天皇即位と崩御

661年8月24日 (斉明天皇7年7月24日) 斉明天皇崩御 斉明天皇崩御の前後は、 百済(くだら)が滅亡、 白村江(はくすきのえ)の戦いでの大敗など、東アジアは激動の時代でした。 ですから、遣唐使の派遣、国土防衛としての水城、烽火・防人の設置、行政機構の整備など、国内外共に課題が山積しておりました。 その為なのでしょうか、 皇太子中大兄皇子さまは、斉明天皇崩御後、長い間皇位に即かれず、皇太子のまま称制(しょうせい)されました。 皇極天皇の頃より実質的な指導者となっていた中大兄皇子さまは、即位するよりも、皇太子のまま称制する方が、慣例にとらわれず側近と大胆な政策遂行できると考えられたのかもしれません。 あるいは、即位すると皇太子を立てなければならず、それは慣例に従えば 大海人皇子さまという事になります。大海人皇子さまを皇太弟として正式に立てれば、まだお心に秘めておられた大友皇子への継承が難しくなる。 そのために、即位を先延ばしにされたのかもしれません。 667年4月17日 (天智天皇6年3月19日) 近江大津宮遷都 表向きは、白村江の戦いの敗戦からの人心を一新するための遷都とされていましたが、この近江大津宮に遷都したこと自体、 大友皇子さまを皇太子とするための 準備のひとつだったのではないでしょうか。 なぜならその辺りは、伊賀を含めて 大友皇子さまを養育した豪族・大友氏の本拠地だったからです。 668年2月20日 (天智天皇7年1月3日) 天智天皇即位 668年4月10日 (天智天皇年2月23日) 同母弟の大海人皇子を皇太弟とした 671年10月 (天智天皇10年9月) 天智天皇は病に倒れられました。 一月後には、もはや回復は難しいと 御自分でも悟られたのでしょうか、 弟の大海人皇子に後事を託そうと側にお呼びになりました。 「そなたに後を託したい。 今、内外共に難しい状況にある。 朝廷の改革も半ばだ。 政に空白期間を作ってはならない。 私が死んだら直ぐに即位して貰いたい。」 しかし、大海人皇子さまは、 「帝、申し訳ございません。 私は、皇太弟ではありますが、 このところ病がちで、とても大役を務めることはできません。 この際剃髪して出家し、吉野に隠棲したいと思っております。 どうぞ、大友皇子さまを改めて皇太子となさって下さい。」 「しかし、大友はまだ若い。 どうしても、ダメか?」 「はい。すでに、鸕野ともよく話し合った末の結論です。これから直ぐに 吉野に向けて出立するつもりでございます。」 こうして大海人皇子さまは拝辞して皇位を受けず、すぐさま剃髪して僧侶となられ、吉野へ隠棲なさいました。 鸕野讚良皇女さまだけを伴って。 671年1月2日 (天智天皇9年11月16日) 第一皇子の大友皇子を史上初の太政大臣とする。 この時、はっきりと自分の後継者は 大友皇子であることを帝がお示しになったと皆が受け取ったことでしょう。 しかし、私(十市皇女)は大友皇子さまに申し上げたのです。 「皇子さま、どうか太政大臣の命をお受けにならないで下さいませ。 皇子さまが皇太子となられたならば、戦になりまする。戦となれば、多くの人が死ぬことになります。 私は、皇子さまに生きていただきたいのです。 どうか、戦をお避け下さいませ。」 「ひめみこ。なぜそのように恐れるのだ。 大海人の叔父上が吉野に隠棲される時に、 私を皇太子にと父帝に進言なされたのだ。 私とて、そなたの父である大海人の叔父上と戦などしたくはないし、するつもりもない。 万一、大海人の叔父上を担ぎ上げる者が出ぬよう、手も打ってある。 その様に心配せずとも、叔父上が吉野へ伴ったのは、鸕野讚良皇女さまと僅かな女官しかいないではないか。 もし戦になったとしても、ここは私が育った地だ。 味方はたくさんいるし、こちらが 朝廷・正規軍なのだ。 兵士も徴用できる。 ひめみこは、何も心配せずとも大丈夫だ。」 私はこの時ほど、己に占いの才だけはあることを疎ましく思ったことはありませんでした。 何度占っても、 “逃げる(隠棲)以外戦は避けられない” “戦となれば、大友皇子さまは負ける”と出るのです。それなのに、戦をお止めすることが出来ないなんて…。 671年11月23日 (天智天皇10年10月17日) 大友皇子を皇太子とする。 側近として蘇我赤兄・中臣金・蘇我果安・巨勢比等・紀大人を選ぶ。 672年1月7日 (天智天皇10年12月3日) 天智天皇近江大津宮で崩御 とうとう天智天皇が崩御されてしまいました。 私はもう一度だけ 「即位されず、隠棲して下さる」よう申し上げました。 しかし、もうその時は既に遅く、皇子さまがお考えを変えたとしても、周りがそれを許さない状況になってしまいました。 即位の儀式が、先帝のお言葉に従い速やかに執り行われました。 それでも、恐らくその事は歴史には 残されることはないのでしょう。 歴史は、常に勝者が綴る物だからです。
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