壬申(じんしん)の乱へ

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壬申(じんしん)の乱へ

天武天皇元年(672年)6月22日 父大海人皇子さまは挙兵を決意 美濃に村国男依ら使者を派遣 2日後には、 自らもわずかな供を従えて出陣なされ、 7月2日に美濃に入られた時には、 すでに不破の道を封鎖し終え、 朝廷側が東国からの兵を募れないようにしていたといいます。 吉野に隠棲される決意をされた時に、 朝廷との戦を避けることはできないであろうと、着々と“その時”に向けてご準備をされてきたのでしょう。 そして、準備が整ったその日に躊躇わず挙兵されたのです。 天武元年(672年)6月26日 大友皇子、群臣に方針を諮る 大友さまと臣下たちの反応は遅く、 油断があったとしか思えません。 天智天皇の山陵(墓)を築くと言う名目で人夫に武器を持たせて備えさせていること、吉野への糧道(補給路)を塞ぐことで、万が一大海人皇子さまが反旗を翻しても大丈夫だと…。 大友皇子さまは、出陣の際に 「そなたの父と闘うことになったことは、残念に思っている。 辛い思いをさせてすまない。 だが、心配せず、母額田王と共に私の勝利を祷って待っていてくれ。 大海人の叔父上が兵を引いてさえくだされば、深追いして追い詰めるようなことはしない。」 そうおっしゃいました。 私は、それにお答えせず 「一刻も早く戦が収束し、無事のお帰りをお待ちしています。」とだけしか申し上げることが出来ませんでした。 母額田王は、毎日神殿で祈りを捧げておりました。 巫(かんなぎ)として朝廷軍の勝利を。 私は、明け方の北極星を見詰めながら手を合わせ“一刻も早く戦が終わるように”“大友皇子さまがご無事でお帰りになるように”それだけを祈りました。 しかし、大海人皇子さまの手の者によって不破の道を封鎖され、朝廷側は東国からの徴兵ができずにいました。 西国の豪族たちは、白村江の戦いの痛手からまだ立ち直れていない上、外からの防御をしなければならないからと言い、兵士を出し朝廷に協力することを拒む者が多くいたのです。 戦が進むにつれて、お味方は亡くなる方が増え、敵に寝返る者も多くなっていきました。 初めはそれほど緊迫していなかった宮中に残った臣下たちも、次第に悪い知らせばかりが届くようになると動揺が広がっていきました。 私は、近江の都に残っていた大海人皇子さまの妻たちと皇女たちを宮中に呼び寄せました。 そして、宮中の護衛兵の長を呼びこう伝えました。 「伝令の報告では、朝廷側が苦戦しているとのこと。 臣下の中に、『万が一の時は、大海人さまの妻たちを盾にして防戦する』という暴言を吐く者がいるようです。 その様なことは、皇后である私が許しません。 正規軍である朝廷側が、女を盾にするなどという卑怯な手段を取って勝利したとしても、その事がどう歴史に残るのか、よく考えて恥ずかしくない振る舞いをなさいますように。 よろしいですね。」 大海人皇子さまの年長の皇子、高市さまや大津さまは、いち早く都を脱出していて、残っているのは女と子どもだけでした。 私に出来ることは、都に残っていた者たちが、戦の犠牲となったり、自害などせぬように匿い(かくまい)、守ることだけだったのです。
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