常軌

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常軌

   どれだけ歩いたか。遠藤は火の海の中心で立ち尽くし、愕然とした。  「このバスって……」  前方部がぐしゃりと潰れ、運転席が剥き出しになった見るも無惨な旅行バス。胴に入った青いラインが彼の記憶を鮮明に呼び起こす。  乗降口側に周り、辺りを探ると「北第三中学校 御一行」と書かれたプレートが落ちているのを発見した。左側は燃えていた。  遠藤は確信した。もちろん信じたくはなかったが、このバスと周囲の惨状は、十年前のトンネル事故の現場そのものなのだと。  もう一度スマホを取り出し時刻を確認する。その時、何かがポケットからこぼれ落ちた気がしたが、薄闇の中でそれを見付けることはできなかった。何より、今はもっと重要なことがある。  十四時五分。よく見ると、充電も一パーセントたりとも減っていない。朧げだった点と点が徐々に繋がってゆく。  スマホの時計が進んでいないのは、そもそも時間という概念が乱れた場所にいるから。その証拠に彼は今、十年前の事故現場にいる。  つまりここに辿り着くまでに見た事故の数々も、いつかどこかで起きたものなのだろう。  ——でも何でこんなことに……? 確か、一人でドライブをしてて……。  ——これだ、このバス。見付かってよかった。  伊野上は安堵し、心の中で呟いた。  進んでも戻っても別のトンネルという発狂しそうな状況下で、何を頼りに目的のものを探せばいいかなど全く想像がつかなかった。  それでも、この新聞を手にした以上、絶対にバスに辿り着かねばならない気がして、無我夢中で進み続けた。おかしな空間にいるせいか、肉体的な疲労を感じることはなかったのは、幸いというべきだっただろうか。  ——どこかに、植松さんがいるはず……。  運転席は、ひしゃげたフロントガラスの枠から飛び出ていた。実際に目の当たりにすると、これだけの事故に遭って生きているとは考え難い。  しかし、未来の新聞には「死者は一人も出なかった」とある。彼女はそれを信じたかった。  バスをぐるっと周り、可能な限り人の痕跡を探したが、めぼしいものは何一つ見付けられなかった。  彼も出口を求めて彷徨っている可能性もある。  ——そう上手いこといかないか。  肩を落として乗降口に戻ってくると、そこで彼女は右足で何かを踏んだことに気付いた。  ——お守り……?  そのお守りにどこか懐かしさを覚えた伊野上は、赤々と燃える炎の近くまで歩み寄り、よく観察した。次第に鼓動が強まる。  何故、このどこにでもあるお守りに見覚えがあるのか。それを深く探ろうとした彼女を、地面から突き上げるような頭痛が襲った。  植松の前方に、彼が運転していたバスの後部が現れた。  当然、これまで通ってきたトンネル内は一本道で、分岐路など存在しなかった。更に、彼は一度も踵を返すことなく、同じ方向へ進み続けていた。木々に囲まれた森の中ならまだしも、トンネルでは迷うことの方が難しい。  ——なんなんだよ。もう……訳が分からん。  結局人と出会うことは叶わず、誰かを助け出すことも、誰かに助けられることもなく、このトンネルは無情にも、もう一度それをやれと迫ってきたのだ。ともすれば、一度だけでは済まないだろう。  肉体的疲労を感じないとはいえど、振り出しに戻された彼の精神は著しく困憊していた。  少し座って休みたい。そう思った彼は、バスの座席が最適だろうと判断した。どれくらい時間が流れたかは分からないが、前に確認した時はがらんとしていた。腰を落ち着けるにはちょうどいいはずだ。  しかし、このトンネルはどこまでも彼が休むことを許さなかった。  ——これは、新聞か?  読み終えた後、彼は新聞を隣の座席に放り投げ、両手で顔を覆った。  ——俺がここから生きて出てきた? それも学生を一人連れて?  二〇一三年 五月三十日。長野中央自動車道。トンネル内で事故に遭った修学旅行へ向かうバスと、その運転手である「植松 武史」。  未だ見ぬ結末を除けば、記事の内容は全て紛れもない事実だった。  もう自分の命だけなら、と半ば捨て鉢になっていたところを、無慈悲に叱咤するかのような予想外のできごとに、彼は大きく溜め息をついた。  学生となれば、ほぼ間違いなく修学旅行生だろう。だとすればこのバスか、後続車のどこかで助けを待っているはずだ。  植松の気力は既に底を尽きかけていた。しかし肉体が動くことを理由に何とか誤魔化して、再び立ち上がった。
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