奇怪

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奇怪

   伊野上(いのうえ)は大破した自家用車から脱出し、出口を求めトンネル内を彷徨い始めてしばらく、ようやく異変に気付いた。  自分以外に逃げ惑う人間が一人もいない。ここに車が停まっている以上、必ず運転手がいたはずだ。だというのに、人影はおろか阿鼻叫喚すら聞こえない。ただ恐ろしく不気味な静寂が、白黒入り乱れた煙と共に漂っていた。  かれこれ十分は歩いただろうかと、腕時計を見る。しかし針はどれも動いていなかった。どうやら事故の衝撃で壊れてしまったようだ。  もはや時間を知ることすらできない。伊野上は、自分が完全に外界と遮断されてしまったことを改めて認識すると、途端に、今まで以上の底知れない恐怖に苛まれた。  彼女はつい先週、彼氏から婚約を持ちかけられたばかりだった。浮き足立ちはしているものの、まだ幸せの盛りにすら達していないのに、自分の人生はここで終わる。彼女の中の唯一の救いは、ここに伴侶がいなかったこと。だがそれは同時に、最大の絶望でもあった。  耐え難い孤独と恐怖に打ちひしがれ、伊野上は遂に脚を止めた。声にならない声が、涙と共に溢れて止まない。  ——もっと、生きてたかった……。  「——」  不意に、背後から声が聞こえた気がした。  彼女はくしゃくしゃになった顔を拭うこともせず、自らの耳を疑うこともせず、感情のままに来た道を戻った。  「どういうことだろう」  トンネルを抜けた先には、トンネルの入り口があった。  無論、それ自体は何ら不思議なことではない。遠藤も幾度かそういう道を通ったことがあった。  問題は、次のトンネルでも大きな事故が起こっていたことだった。  筒井は押し黙っている。  トンネルとトンネルの間に事故の形跡はなく、そこだけ切り取れば、少し先で事故があったと言われなければ分からないほど、普通の光景だった。  ところが次のトンネルに入ると、そこでも事故が起きていた。  これは偶然なのだろうか? と遠藤は首を傾げた。  「でも考えてもしかたないし、とりあえず誰か探そう」  筒井の言動は、ややもすると遠藤を置き去りにしかねないほど、迷いのないものだった。緊急時にここまでの胆力を見せる彼女に、彼は強い安心感を覚えた。同時に少し、危険を顧みなさ過ぎる感覚を疑った。  「やっぱり変だよ。熱くない」  横転した大型トラックは、まさに火だるま状態だった。仮に、未だ見ぬ人が乗っていたとしても、助けるどころか、近付くことすらままならない火勢だ。  だが、それ以上のことは起こらなかった。少なくとも現時点では、ガソリンを伝って延焼したり、爆発することもない。  何より謎を深めたのは、それが放つ熱を一切感じないことだった。まるで、圧倒的な臨場感を誇る映像をただ見ているかのように錯覚するほど、肌で感じるものがなかった。  「遠藤、スマホ出して」  彼は言われるがまま、ポケットからそれを抜き取り、画面をつけた。そこに映し出された時間を読み上げる。  「十四時五分、圏外」遠藤の表情はみるみるうちに翳った。「壊れてるだけってことは……」  「スマホそのものが壊れてるなら、画面すらつかないでしょ」  彼はその言葉に虚を突かれながらも納得した。それからすぐに、疑問と困惑が渦巻く思考を必死に巡らせた。  前のトンネルからここに来るまで、誰一人として人と出会さないのは何故か。  これほどの業火を目前に熱を感じず、炎も燃え広がることがないのは何故か。  そもそも、事故に遭ったにも関わらず無傷でいられたのも、本当にただ運が良かっただけなのか。  思い返せば、それだけ謎が無尽蔵に湧き出てくる。この状況下で現実的な答えを求めることこそ、最も現実的ではない気がした。  遠藤が答えを導き出す前に、筒井は苦笑いを浮かべて呟いた。  「私たち、今度こそ死んだかもね」
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