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一挙
しかし植松の覚悟は、虚しくも空振りに終わった。
——何故燃えない……?
彼の膝はガソリンで濡れていた。すぐ近くには、いつ爆発してもおかしくないような鉄の塊が転がっている。その火炎が身体を包み、想像を絶する苦痛の末に灰になる——ことはなかった。何故だ。
怪我も、記憶も、人すらいない。今にして思えば、初めからおかしなことだらけだったのだ。
直前まで極限の焦燥状態だった植松は、改めて自らが運転していたバスの中へと戻り、四十五ある座席をくまなく捜索した。
果たして、「やはり」というべきか、彼が乗せていたはずの乗客の痕跡は、どこにも残っていなかった。
これだけの大事故を前に、手荷物全てを後生大事に持って逃げるだろうか。すぐに、あり得ないと判じた。一人二人なら、そういう性格の人物もいるだろうが、全員ともなると、あまりにも無理がある。
——つまるところ、俺は既にこの事故で死んでいて、地縛霊か何かになっている……のか。
自らが置かれた状況を鑑みるに、そう考えるのが最も妥当である気すらした。人間誰しも、“死”は初めての経験である。分からないことだらけなのも当然だ、と彼は自嘲した。
だからといって、永遠にこのトンネルを彷徨いたくはない。
そうして植松はバスを降り、本来の進行方向へ向けて歩き始めた。
「あっつ」
火炎は、ただの飾り付けではなかった。
彼は道すがら、おもむろに揺らめく炎の端に触れると、勢いに見合った熱を感じた。そこでようやく、自分の脛が濡れていたことに気付いた。
——そういえば膝をついたな。触れたものは感じることができるのか。
「死後のトンネル」の法則の片鱗。しかし、今の彼にとってはどうでもいいことであり、それ以上に——緩いカーブの先の光の方が重要だった。
「縁起でもないこと言わないでよ」
遠藤は反駁したものの、内心では否定しきれなかった。一方で、それを認めて口に出してしまったら“負け”だと思う自分がいた。もっともらしい深い理由など浮かばなかったが、折れてはいけない気がしたのだ。
「はは。でも本当、ツイてないよね」
「あれももう十年前か。あの運転手さん、今何してるんだろう」
彼は、もうとっくに忘れた運転手の顔を思い浮かべた。その顔は煙がかって出てこない。
十年前、中学生だった彼らは、修学旅行へと向かう道中で大きな事故に遭った。
中央自動車道に設けられた長いトンネル内で、一台の中型トラックがセンターラインをはみ出し、対向車線に突っ込んできたのだ。それを直に受け止めてしまったのが、彼らが乗っていた長距離バスだった。
その事故を皮切りに、上り下りを問わず、トンネル内では激しい衝突が連鎖した。
遠藤たち学生は教員に誘導され脱出。幸い、怪我人こそあれど、誰も欠けることはなかった。
しばらくの間、テレビでそのニュースを見ない日はなかった。あまりにも規模が大きかったこと、トンネルでの事故だったこともあり、「救助、捜索活動は難航を極める」、「死傷者もまだ分からない」と誰しもが口を揃えて言っていた。
そして事故から二日後。遂に最後の生存者が発見された、と速報テロップが流れた。その最後の一人こそ、彼らが乗っていたバスの運転手だったのだ。更に彼は、トンネル内に取り残されていた生存者を救助し、無事に生還したのだ。
二人は「奇跡の生存者」として、大々的に取り上げられた。
死者は、一人として出なかったのだ。
「もう五十か六十歳くらいかな。元気でいてくれてるといいけど」
筒井はぼやけた過去に思いを馳せた。
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